Re: 民族のなまえ

こんにちは
いずこをご旅行中なのだろうか。

>「わ」が自称の証拠としては、今の日本の教科書でも「わが国」なんて書いていると思います。

たしかに!
しかし、そんな風に考えたことはありませんでした。
いまも現役で使われる表現「わがくに」が、倭国の起源であるかもしれない!気が遠くなりました(笑)。

タイ語系統もおもしろいですねえ。
タイはタイ語で「人」、ラオは(タイ語で?)「彼ら」、そして、タイガタイのガタイは(タイ語で?)「~でもいいよ」。語族の名が成立時の力関係が透けて見えるようです。

ところで「倭」は、『漢書』や『三国志』では、倭人は日本列島の住人として記述されますが、それ以前の歴史書では、朝鮮半島南部あるいは揚子江の南側あたりのどこかに住む人々となっています。

戦国時代に成立したという『山海経』には、「蓋国在鉅燕南倭北倭属燕(蓋国は巨大な燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属す)」。「燕」は渤海を起点にみると、東は朝鮮半島北部まで、西は上海までテリトリーを広げた大国です。すると「倭」の位置は、朝鮮半島南部か揚子江下流あたり。どちらだろう。

後漢代に著された『論衡』には、「成王時越裳獻雉倭人貢鬯」(成王の時、越裳は雉を獻じ、倭人は鬯を貢ず)とあります。成王とは周代の王(全11世紀)です。周代の「倭人」はおそらくベトナムだと思われる「越裳」とセットで記述されたのですね。すると、倭人がいたのは、江南から雲南のあたりのどこかになりそうです。

ひょっとすると、「倭人」には、タイ人の祖が含まれる可能性もあるなあなどと、考え出すと止まらないわけです。

では!

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2件のコメント

  • 古代史は興味深い

    『山海経』(せんがいきょうと読むらしい)は春秋戦国時代にまで遡り、いまだちゃんとした史書としては扱われていないようですが、面白いところに注目されましたね。

    「蓋国在鉅燕南倭北倭属燕(蓋国は巨大な燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属す)」。
    古代の文は句読点がなく解釈は難しいのですが、()内の釈文の通りに受け取れば、蓋という国は朝鮮半島中部、倭はその南ということになるかと思います。鉅燕(巨燕)は華北の沿海、斉の辺りまで含むとしてです。

    考古学的に朝鮮半島の南部から北九州にかけて同じ文化圏にあったようで、ここに倭の人たちが住んでいたと考えるのは通説と矛盾しないようです。

    GHQに脱脂粉乳を飲まされて日本人の体格が良くなりましたが、それ以前は小柄な人が多く、近世までは物腰も控え目であった。つまり、漢人の方が相当昔から中国周縁文化圏の人たちより体格は大柄で、態度は横柄であったのかもしれません。

    『論衡』については知りませんが、以下のようなことも言えるかもしれません。

    諸タイ族は今の日本人より小柄です。モン族も体は小柄。
    字音でなく、字体を主に考えれば「倭人」と呼ばれる人たちが華南より先にも存在してもおかしくはありませんね。

    モン族は元来文字を持たない民族で伝承はどれほど古いものか不明ですが、言い伝えに日本人と自分たちはもともと同種の民族で、それが分かれて東の海へ移動した民と西南の山に移動した民になったと。
    最近になって作られた話のようなニオイがしますけど。

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    モン族の稲作風景

    モン族側にもそんな「言い伝え」がありますか。
    日本側にも、戦前なのかな、モン族を弥生文化の源流とする「学説」があったようですね。
    しかし、DNAの分析からも言語分析からも、モン族が日本列島に移動したと言えるような証拠は出てはいない、というように(あいまいで申し訳ない)聞いたかな。

    私はモン族の土地に行ったことがないのですが、実際に稲作風景やら祭りの様子を目にすると、日本の稲作文化とのつながりを確信するようなものがあるのだろうなと推察します。いつか、行きたいものです。

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  • 18/02/06 14:24

    蝦夷の阿弖流爲

    現在の奥州市で征夷大将軍に卑怯な滅ぼされ方をしましたが

    ドラマでは一人称として「わー」でした。
    史料少ないですが。

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    北方の民俗

    東北地方以北の歴史はまだよくわからないことがたくさんありますね。

    たとえば地名にはアイヌ語の痕跡がたくさん残るようですが、日本語を使う民とアイヌ語を使う民の境界がどのように動いていったのか。
    空間的に境界が移動しただけでなく、時間的に変化していった面もあるように思います。

    アイヌ語を使っていた人たちはただ北へ北へと押しやられていったのか。
    居住地はそのままに、日本人としてヤマトの文化を受容して日本語を使うようになっていったのか。
    農業技術の進歩で、米作の北限が移っていったこともあるし、日本海の航路、交易も関係ある。

    文献や考古学だけでなく、民俗学的なものが興味深いです。

    例えば青森県津軽地方の、岩木山の御山参詣の幟旗を立て登って行く様子は、新潟県の妙高山の参詣と似ているように思います。わたしは写真でしか知らないんですけどね。
    イタコのような民俗も上越から移って行ったのかもしれません。




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