結局最終的には意地を張っている分ごね得でしょう

良い国家ですね。

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2件のコメント

  • 16/11/01 07:45

    頃合い

    私は30歳ころから駅前の区画整理促進運動をしていてはじめ反対の人も今はみな喜んでいます。
    役所が素早く決めてしまいましたが、住民の9割は土地の唯どり反対と言って多くの人が反対同盟に入り多数派になびいていました。

    私は自営業で家族も商売に響くから運動はほどほどにと言っていました。私は消防車も入れない道もあり、白紙撤回は不可能と考え一人で借地権申告など率先して促進運動もやり私の家も開放して役所の説明会の場所も提供しました。
    反対同盟は真っ先にできました。しかし促進者は10年間ぐらいはなかなか増えず反対同盟のビラばかり目につきました。しかし家の新築はできずそれで困った人など駅前の商店は売り上げが停滞しているのでようやく商店会から賛成者が出てきてはっきり賛成した2番目の人は10年後でした。
    反対同盟はプロの反対屋を雇いましたが金目当てで地元の人ではなく促進が強まるに従い逃げるように消えてしまいました。

    反対に同調していた人たちは説明会にも欠席してそれで説明が足らないと言っていました。これは反対者が言う共通に現象です。ニュースはどこからでも入るのに聞こうとしないで反対のための反対に見えます。
    しかし賛成が徐々に増えてきてからは反対同盟に同調していた人の中には義理がない私の店に買い物に来て情報を聞きたがる様子がありありでしたが自分から切り出さないので私も少しじらしたりしました。

    その後1956年に促進協議会が出来私は一生懸命に促進会員を増やし決まってから30年後私が60歳ころになってようやく一番進んだ私の地区から区画整理が始まりました。区画整理で損をした人は地主に無断でまた貸ししていた一人だけです。みな借地権者や借家権者も自分持ちに代わり財産は形は変わりましたが増えています。

    区画整理後の土地にマンションを建て一軒家から再開発ビルになりましたが道路は広くなり住みやすくなりました私も借地権で得た2軒のうち1軒を他人に貸してその上がりで海外旅行をしていました。もう1軒は原価で購入し無線のアンテナを建てるためにそれを売り都落ちしています。私の半生は区画整理促進運動が半分を占めていました。今はすっかり過去のこととして次の目標をもって前向きに生きています。

    日本人の土地えの執着は相当なものです。反対は賛成よりは遥かに容易ですが全体の利益を優先すれば長い時間はかかりますあきらめなければいつかは良くなると思います。
    ごね得という言葉がありますがごねすぎると役所にもほおっておかれ道路に1軒だけそのままになり、役所の言う補償金ももらえなくなり周りから今では白い目で見られています。

    私の促進運動の為か妻の寿命をちじめてしまった一因になったのかもしれません。妻は私の考えに同調をしてくれましたがストレスから更年期障害がひどく、肺がんにもなり私の犠牲者になったのかもしれません。しかし丸山ワクチンも使って病院の予想より長く生きることが出来ました。病院では積極的ではなかった丸山ワクチンのことは私がすべてで責任を持つと言って病院には迷惑をかけませんでした。意外に長生きをしましたので注射器も原価で分けてくれ毎日病院へ来るのは大変だろうと私に注射法を教えてくれました。子供にもなるべく負担はかけず私がすべて困難は受け入れました。

    しかしホスピスに転院する前20日間だけ区画整理っしてその上に再開発した後の新しいマンションに入り窓から富士山を眺められたのはせめてもの慰めです。その間国内旅行はできるだけ一緒にゆきました。発見から6年半生きましたので近くの旅行が出来たのが良かったです。

    海外旅行もパスポートは取りましたが行く事はできず亡くなった年から半年後オーストラリアへ私一人で行った際妻のパスポートに入院中の写真を見せて事情を話し内緒という事でスタンプを押してくれました。

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    区画整理は大変ですよ

    さすけねえの自宅脇も陳情道路で25年位前かな~

    市役所に行ったら町内会の下の部会という単位の長に陳情の「頭」になってもらってというので、部会長に相談に行くと家が20mほど離れたところでその道路に関係ないからか「俺は関係ない勝手にやれ」というとんでもない相手で。

    それならと市会議員に直接言って陳情書の紹介議員になっていただきました。

    住んでいない方もおられ、ハンコは言い出しっぺのさすけねえが貰いに行って。

    住んでいるで市では陳情道路って買い上げでなく無償で土地を出すのです。

    計画巾のセンター振り分けで皆さんが市に寄付しました。

    現在立っている家は建て替えるときに引っ込まないと確認申請が下りなくなるという条件も説明して。

    頑固ジジイがいて「俺のうちにかけるな反対側に広げるように交渉しろ」って反対側だってそれではハンコを押さなくなりますヨ。

    息子(と言っても私より年上)に説得してもらっても納得してもらえず。

    幸いなことに本人が婿様だったので婆ちゃんに爺さんに内緒でハンコをもらって。

    ま~いいことをしたと思います。

    完成したら部会長が「道路広がってよかったナイ」というので無視してやりました。

    本人は死にましたが息子は当然住んでいますけどその時のいきさつは近所皆さん知っています。

    「さすけねえは大したものだ!」と先程の爺さんなどは町内の人に当然いうし。

    それでも1か所道路幅が広が無くってむかしのままの巾の所があり、そこは側溝は入り民地の部分に市が砂利を敷いてくれたのでみんなの車が通って今では同じ幅になり自由に通っています。

    同じ町内に同じようなところが何か所かあるのですが「旗振り」がいないとどこもだめですね。

    だからその市道の路線名はいつでもわかります「●●(町内名)遊園線」。

    道路脇にあるのが正式名が市の「●●児童公園」なのですが、通称の「●●遊園地」がそのまま道路名になって。

    でもそうやって行動しないと道路なんてできないのですけど区画整理もですが。

    成功を祈る!

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  • 16/10/28 09:24

    単純脳細胞

    成田闘争(三里塚闘争)の詳しい経緯については知りません。しかし死者もでています。ちょっとウイキペディアを読んだだけでも「ごね得」などという分りやすい卑近なものだけではないことは分かります。50年以上に及ぶ複雑な歴史、恩讐があり単純脳細胞では語れません。

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