相当額の立ち退き料を手に♪ 最初から意地張ってないで国からカネ受け取ってもっといいへ転ずればよかったのにね。 成田は余り利用しないのでRunwayはよく分かりませんが
結局最終的には意地を張っている分ごね得でしょう 良い国家ですね。
単純脳細胞 成田闘争(三里塚闘争)の詳しい経緯については知りません。しかし死者もでています。ちょっとウイキペディアを読んだだけでも「ごね得」などという分りやすい卑近なものだけではないことは分かります。50年以上に及ぶ複雑な歴史、恩讐があり単純脳細胞では語れません。
頃合い 私は30歳ころから駅前の区画整理促進運動をしていてはじめ反対の人も今はみな喜んでいます。 役所が素早く決めてしまいましたが、住民の9割は土地の唯どり反対と言って多くの人が反対同盟に入り多数派になびいていました。 私は自営業で家族も商売に響くから運動はほどほどにと言っていました。私は消防車も入れない道もあり、白紙撤回は不可能と考え一人で借地権申告など率先して促進運動もやり私の家も開放して役所の説明会の場所も提供しました。 反対同盟は真っ先にできました。しかし促進者は10年間ぐらいはなかなか増えず反対同盟のビラばかり目につきました。しかし家の新築はできずそれで困った人など駅前の商店は売り上げが停滞しているのでようやく商店会から賛成者が出てきてはっきり賛成した2番目の人は10年後でした。 反対同盟はプロの反対屋を雇いましたが金目当てで地元の人ではなく促進が強まるに従い逃げるように消えてしまいました。 反対に同調していた人たちは説明会にも欠席してそれで説明が足らないと言っていました。これは反対者が言う共通に現象です。ニュースはどこからでも入るのに聞こうとしないで反対のための反対に見えます。 しかし賛成が徐々に増えてきてからは反対同盟に同調していた人の中には義理がない私の店に買い物に来て情報を聞きたがる様子がありありでしたが自分から切り出さないので私も少しじらしたりしました。 その後1956年に促進協議会が出来私は一生懸命に促進会員を増やし決まってから30年後私が60歳ころになってようやく一番進んだ私の地区から区画整理が始まりました。区画整理で損をした人は地主に無断でまた貸ししていた一人だけです。みな借地権者や借家権者も自分持ちに代わり財産は形は変わりましたが増えています。 区画整理後の土地にマンションを建て一軒家から再開発ビルになりましたが道路は広くなり住みやすくなりました私も借地権で得た2軒のうち1軒を他人に貸してその上がりで海外旅行をしていました。もう1軒は原価で購入し無線のアンテナを建てるためにそれを売り都落ちしています。私の半生は区画整理促進運動が半分を占めていました。今はすっかり過去のこととして次の目標をもって前向きに生きています。 日本人の土地えの執着は相当なものです。反対は賛成よりは遥かに容易ですが全体の利益を優先すれば長い時間はかかりますあきらめなければいつかは良くなると思います。 ごね得という言葉がありますがごねすぎると役所にもほおっておかれ道路に1軒だけそのままになり、役所の言う補償金ももらえなくなり周りから今では白い目で見られています。 私の促進運動の為か妻の寿命をちじめてしまった一因になったのかもしれません。妻は私の考えに同調をしてくれましたがストレスから更年期障害がひどく、肺がんにもなり私の犠牲者になったのかもしれません。しかし丸山ワクチンも使って病院の予想より長く生きることが出来ました。病院では積極的ではなかった丸山ワクチンのことは私がすべてで責任を持つと言って病院には迷惑をかけませんでした。意外に長生きをしましたので注射器も原価で分けてくれ毎日病院へ来るのは大変だろうと私に注射法を教えてくれました。子供にもなるべく負担はかけず私がすべて困難は受け入れました。 しかしホスピスに転院する前20日間だけ区画整理っしてその上に再開発した後の新しいマンションに入り窓から富士山を眺められたのはせめてもの慰めです。その間国内旅行はできるだけ一緒にゆきました。発見から6年半生きましたので近くの旅行が出来たのが良かったです。 海外旅行もパスポートは取りましたが行く事はできず亡くなった年から半年後オーストラリアへ私一人で行った際妻のパスポートに入院中の写真を見せて事情を話し内緒という事でスタンプを押してくれました。
いったいなにつくっていたのだろう? 空港の真ん中の畑で? 農水省の 産地ブランド発掘事業にでて、 成田空港三里塚産とか書いて成田空港でお土産として売り出したら おもしろいのですが。 http://www.maff.go.jp/j/seisan/gizyutu/hukyu/h_zirei/brand/brand.html 小泉くんあたりやらないかな? 国交省と対抗して。
土地にそのものに執着するなぜ1km先に移動するのも嫌なのか? 公共用地に自宅が掛かり、田畑がかかる人は自分の所はいやだ反対側を買収しろと言いますネ。 代替え地をその保証金で買えばいいだけなのに。 どうせ農地解放等で二束三文で水のみ百姓だった祖先が手に入れた土地なのに。 だれかがその移転などで滑走路等の土地を生み出さないと近代社会に歴史の進歩に追いついていかない。 文明はどんどん発達するそうでないと羽田や関空のように海を埋め立てて飛行場を作るしかできないことになる。 内陸では難しい問題ですよ。
成田空港ナッツ 乗り入れ各社のおつまみに強制採用。千葉県名産?ってったら落花生だとオイどんの頃小学4年の社会科の教科書に出てたっけ。現在はどうだか?ナッツが激売れ商材に?!
ポチとミケさんへ こんにちは。 とてもいいカキコミを目にしたので貼り付けます。 いま一方的に語られている物事を違う角度から見つめたものにご興味を持っていただけると思います。 ****************** 成田(三里塚)は戦後史の象徴ともいえる土地です。 成田農地のはじまりは、敗戦で帰国した満州開拓団の入植でした。政府の肝いりの入植地には、ほどなくして復員兵も合流しました。彼らは、土地の開墾から出発し、養豚と麦や根菜の栽培の組み合わせによる有機農業を立ち上げましたが、害虫の発生や水不足に悩まされ、思うような収穫をあげることができず、出稼ぎ頼りの暮らしが続きました。農業収入が安定しだしたのは、高度成長にともない都市部の消費が増大したころでした。入植から20年して、野菜主体の近郊農業やピーナッツの生産に活路がみえたのです。 ところがその矢先の1966年、空港の建設のため立ち退きが命じられました。経済成長を軌道に乗せるための本格的国際空港建設は日本の急務でした。成田の地が選ばれたのは、他と比較して農地としての歴史が浅く用地買収にともなう反対も激しくはなかろうとの判断でした。行政による通常の農地買収とは違い、成田の入植農民には代替農地は用意されませんでした。 国家の方針で満州の原野を開拓したものの敗戦ですべてを失い、命からがら帰国してゼロからの再出発でようやく農業で生活できるようになったところで、また自分たちが開墾した農地を手放せとの国家の命令でした。ですから成田空港建設反対運動は、ごね得狙いなどではなく誇りと生活のための戦いでした。反対運動は、当時の労働運動と連動しながら全国的な社会運動へと発展し、いったんは成功するかに思えました。 しかし、いわゆる左翼が空港建設反対運動のなかで勢力を伸ばすにしたがい、行政対農家集団の対立は、米ソ冷戦の代理戦争の場へと変質していきました。反対運動の主役は革命家を標榜する過激派や日米安保反対・ベトナム戦争反対闘争の学生にとってかわられ、政府当局との衝突そのものを目的とする反対運動は苛烈を極め、ついに三名の機動隊員が殉職するに至りました。 激しい闘争のなかで、空港は1971年に着工し、滑走路三本の予定だったところを一本のみで1978年に開港しました。長引く闘争にも過激派に政治利用されることにも疲弊した開拓農民は、行政が斡旋する成田空港内の職に就く者あり、千葉に増え始めたゴルフ場に職を求める者あり、高齢のため現役を退く者ありと、次々に農地を手放していきました。 代わって成田農地の地主となったのは、過激派の支持者たちでした。その後も滑走路の拡張のたびに闘争が起きましたが、米ソ冷戦の終焉とともに、革命への熱は日本社会から遊離し、成田の闘争もまたその規模を縮小していきました。 そして、最初の立ち退き命令から50年の歳月を経て、2016年、三本目の滑走路の整備を阻んでいた最後の農家の土地明け渡しが決定しました。皮肉なことに、あれほどの反対を押して建設した成田空港は首都の空の玄関の地位を羽田空港に譲りつつあります。成田の着工当時には技術的に考えられなかった羽田の海への拡張が容易になったからです。ヘルメットにバンダナマスクの過激派が機動隊と衝突する映像を覚えている人は多くとも、開拓農民の苦闘を知る人は少なくなりました。 成田の奇妙な滑走路は戦後史を背負っています。アメリカから成田空港におこしの際には、ピーナッツを食べて開拓農民のガッツにも思いを馳せてください。 *****