出だしは合成ウイスキーかと・・・ まだまだビールは高かったので ビールにトリスを割ってのみました。 もともとあんまり強くないのですぐアンクルトリスみたいになりました 。 ビールを飲むとトリスが足されます。 帰りがけにもったいない ・・そういう時代でした、とグイーとあけるとほとんどトリス。 帰りの駅の階段(まだほとんどの駅の階段は木造でした)がつらかった・ ・・。 サントリーは 鳥居さんをひっくり返したネーミングで戦前のものとか 。 あるコースに食紅とサッカリンを足して出来たのが赤玉ポートワイン・・・というまことしやかな悪口が世上に流布しておりました。 その後ビールに各社が進出。 たしか寶酒造もビールを。 サントリーは最初 デンマークビールのさわやかな苦味・・・をと売り出したはずですが これは 36-7年では。 しゃれた ビアホールが人気でしたがビールでは苦労したようです。 このころになると開高 健、山口 瞳、柳原良平など洋酒天国の面々がみんな世に出て 肝心?の洋酒天国がもうひとつ面白くなくなったようです。 そして ダルマなる OLDの全盛期が ミニバブル・・の形で。 嗚呼 すぐ昔話になります。 いえそんなに古くない・・・ ? そういえば トリスを飲んでハワイへ行こうは 過剰賞品広告摘発第一号でポシャッたはず。
三鳥井 鳥井3兄弟からとの説(母校の小学生の間だけだったのかも) しか知りませんでしたが、先述の佐治敬三さんの講演によると 昭和4年にウイスキー(白札)を発売するとき 主力商品だった赤玉ポートワイン(現在の赤玉スイートワイン) の赤玉=太陽(サン)と鳥井を合わせたと語っておられます。 別のサイトでは上記に加え「鳥井さんをひっくり返した」 との説も紹介されていました。
サントリー与話・・・与太話の与です。 4-5年前に三十三回忌のおやじの話ですが 大正昭和のモボ・モガ時代の西洋カブレで売れた赤玉ポートワイン(オンナの人が飲んでもいいオサケ・・・でした)に乗っかってウイスキーの製造販売を考えて 醸造責任者をスコットランドに派遣して研究させたら・・・これがあまりにも良心的?で職人肌、その後はこちらが独立して出来たのが ニッカ ・・の竹鶴オジサン。 ウイスキーの醸成期間中はウイスキーが売れないので工場のある北海道余市産のりんごを絞って シードルとして売ったのは有名なお話。 売れ先を手伝ったのが アサヒの山本為三郎という趣味先行の名物社長とか。 つまり いち早くウイスキーを売り出した サントリーさんに よからぬウワサがたった所以です。 サントリーさんが基礎を固めたのは戦争勃発による輸入禁止?と軍需景気・・。大増産体制、大量消費・・・といっても庶民の口には入らないのですが 戦後10年もたたないうちに 16年もの(たしか?)を売り出したのも ・・・??のタネでした。 いえ 著名な人には虚実とりまぜた伝説はツキモノです。 こんな話が巷にあれば あの会社がしゃれた文化の担い手になろうと一所懸命なのも ウンといえないことも。 アッハハ でした。
ビール部門が黒字になったら・・ 株式公開するンや・・・と佐治敬三さんが言ってたと記憶していますが、未だに株式公開は無し・・・必要が無いのでしょう。 >そういえば トリスを飲んでハワイへ行こうは 過剰賞品広告摘発第一号でポシャッたはず。 ホンマにハワイに行けたのでしょうか? 昭和36年・・小学校一年生。一ドル360円、小遣い一日五円の時代。 >肝心?の洋酒天国がもうひとつ面白くなくなったようです。 一番面白かったと噂の読者の投稿欄は殆ど開高文豪の一人芝居だったらしいんですね。 ・・さすがに本物は持っていませんが、後年適当な記事を集めて単行本化された「洋酒天国」の投稿欄を見ると「谷沢永一」氏の名前が・・・勿論開高文豪が勝手に使ったと言うことです。 表紙の写真がヌードモデルを描く「寅さん」のタコ社長。 実にセンスが良い・・現役で見たかったです。