Re: MAIDE IN OCCUPIED JAPAN ぼうふらおじさん さん と書くとなにか変な感じですが、初めまして。 特にスイスに関しての造詣の深さに感嘆しています。 レスありがとうございました。 うろ覚えのSEIKOの謎が解けました。 あの時計があったら今頃は値打ちがあったのになぁ と悔やまれます。 高値で売れるとか、そんな下世話なことではなく 我が家の歴史や子供たちの教材として。 先日、日本アカデミー賞を総なめにした 「3丁目の夕日」を観ましたが、昭和33年の時代設定で 子供の頃を思い出し懐かしさを覚えましたが、 ぼうふらおじさんはもう少し上の世代なのですね。 幼稚園へ入る前、伊丹空港の近くに住んでおり 進駐軍のカマボコ兵舎が立ち並んでいて 母の話によると乳母車に乗った私や弟に米兵がチョコレートを くれたそうです。うっすらとしか記憶にありませんが。
三丁目の夕陽 タイ国鉄さん 三丁目の夕陽は見ていませんが 昭和三十三年は学校を出て会社勤めが始まった年です。 朝鮮戦争が終了して戦争特需がおわり時ならぬ不景気風が吹いて学校の先輩たちはみんな就職にオタオタしていたのですが この4月から突然各社とも大量に新卒を取り始めました。 そろそろあちこちの通りの屋台店が立ち退きとなり お店が軒をならべるようになったコロです。 あちこちの町もまだまだ高層ビルの数も少なく まだまだあちこちの夕陽ケ丘や 富士見坂、富士見町からは しっかり富士山が見えました。 西陽のきつい西側の部屋の家賃はやすく 電車の線路際の西日に当たる部屋・・・が 若い人たちの定番の棲み家でした。 主流派ようよう トリス。 トリスを呑んでハワイにゆこう・・・は もう少しあとだったような。
トリスを飲んでハワイへ行こう 洋酒の壽屋(現SUNTORY)のコマーシャルですね。 土曜夜の壽屋提供「ローハイド」とその前の 「日真名氏飛び出す」?は必ず観ていました。 すぐ真っ赤になる柳原良平さんの アンクルおじさんが懐かしいですね。 私が卒業した私立小学校の初代理事長が 壽屋創業者の鳥井信治郎氏だった関係もあり 同窓会のビールは必ずサントリー キリンやアサヒに就職した卒業生は複雑な心境でしょう。 現社長も後輩のはずです。 ひょっとしたらあのビールは サントリー提供だったのかも・・・?
タイ国鉄総裁殿 こんにちは 伊丹空港、米軍機が良く飛行しておりました。 民間機も柵ひとつで 目の前に止まっていました。 懐かしいですね~~。
えっ いつの間に 総裁に任命されたんだろ? 全線貰える無料パス~~~ 全線踏破の際には 自分で自分に表彰状を渡さなきゃ!!
伊丹空港 初海外旅行は高2の夏、当時の大阪国際空港(伊丹) から国際線を独占していた鶴丸航空を1機 (ダグラスDC8かコンベア880Mだったか)チャーターして (個人でではありません、ボーイスカウトの派遣で総員102名) 台湾(=当時中国として国交があった)へ行ったのでした。 このへんの詳しい話は、こんど初めて台湾に行く中3の坊君に 書いたんだけど、消されちゃった。 なにぶん40年以上前のことでよく覚えていませんが 当時の写真を見ると、国際線前の広場は未舗装で砂利が敷いてあり 両替の東京銀行出張所の建物はバラック建てのようでした。 阪急バスの停留所も「国内線前」、「国際線前」の2ヵ所ありましたね。 国際線が関空へ移ったあと阪急電車の車内放送が 「蛍池・国際空港前」から「蛍池・大阪空港前」に変わりました。