歴史的映像

ジョークだろうとは、わかりますが、それを推しても成立しえない訳で。

独裁者の最期の瞬間をみごとに捉えた映像は、ブルガリアの、あのフィルムだけですね。あれを撮った人はすごいと思います。それだけ、民衆が打倒に盛り上がっていたからできたんだとおもいますが。フセインをアメリカ兵がひっとらえた時の映像も、実は、なるべく情けない姿を世界に晒す方がいいということで、とりなおしたらしいです。

チャウシェスクは、ある意味、ヒットラーに似ている所があり、例えば、ブルガリア領内に、戦前はハンガリー領だった、日本でいえば奈良京都に該当するような国民的文化財の豊富な地域を、ハンガリー人嫌がらせ目的で、タリバンがやったように、これをすべて破壊して、整地して団地をその上に建てたんだそうです。類似例はいろいろあるようです。体操で有名なコマネチも、次男ニクから相当なセクハラを受け続けていたらしいです。

アブグレイブ収容所のイラク人拷問フィルムとか、英兵がイラクの子供を虐待している映像など、関係ない市民には、センセーショナルな映像を、何故、わざわざ自らのクビをしめるような証拠を撮りまくるのか理解できない。ああいう連中は、もともと頭がいかれているから最前線にいくのか、行って頭がおかしくなったのか、どっちかだろうけど、とりまくる連中、撮られても平気な連中って、何を目的に、どういう思考回路で、ああいうビデオを撮って残そうというモチベーションになるのか?ジャーナリストに高額で売りつける為に撮影してるんだろか?

北朝鮮の送還脱北者女性を蹴り飛ばして拷問しながら尋問してる映像は、蹴り飛ばした尋問官本人が自分の尋問態度を密かに撮影しておき、その本人が、それをもって脱北し、北朝鮮の惨状を世界に訴えようとした、という事らしいです。

  • いいね! 0
  • コメント 1件

1件のコメント

  • 06/02/26 06:31

    ちょっと訂正

    チャウチェスクはブルガリアではなくルーマニアです。
    多分私も良くやるアエロフロートをエアロフロートと言い間違える事がありましたので、ケアミスだと思いますので訂正しておきます。

    ブルガリアは他の共産主義国の流れに沿って割合静かに崩壊したと思います。
    ルーマニアの共和国宮殿は誰でも今は入る事が出来大理石の豪華な宮殿です。
    あのバルコニーには誰でも立つ事が出来、パリのベルサイユ宮殿をまねたとかで見下ろす街並みが左右対称的です。
    そこの部屋の中に血の絨毯が無造作に丸めてありました。

    それと少し似ていますが、わが日本で慶応3年11月15日に京都の近江屋で暗殺された
    坂本竜馬と中岡慎太郎の血の掛け軸(京都大学所蔵)が上野の博物館へ来た時に実物を見に行きました。

    イランへ行ったときにガイドがフセインはだらしがない米軍に引き出される前に、自殺すべきだったと言っていました。
    テヘランのバザールで記念にサダムフセイン、パーレビー国王、1910年の大きなエカテリーナ女王が描かれた札を売っていましたので、
    めったに土産を買わない私も買ってきました。

    昔の外国の独裁者や王様は豪華な歴史的な建物を残していますが、そこへ行くと日本の場合は徳川家も足利家もその他の大名も割合質素な気がします。
    金閣寺や日光東照宮程度で、エカテリーナ宮殿などに比べれば規模が違います。
    その為民衆の反感もヨーロッパほどではなかったのではないかと思っています。
    江戸城の天守閣は火事にあった後、財政的な理由とかで未だに復活していません。

    ただ後世の私たちから見れば多くの犠牲を払った外国の遺跡でも旅行の際は色々なものを見ることが出来ます。
    暴君ネロのローマは町中が遺跡だらけです。

    第二次大戦までは戦争も敵の歴史的遺跡を破壊しないように戦争のルールが生きていました。ヒトラーはワルシャワの街を破壊してしまいましたが、パリ占領のドイツ軍司令官のパリは燃えているかは映画でも割合有名になりました。
    京都も奈良もそれで助かり、日本人も戊辰戦争時旧幕軍を追い詰めた板垣退助が
    東照宮での戦火を避けて会津方面へ逃げ道を空けた事は有名です。

    抵抗したい新撰組を理由をつけて勝沼へ追いやった勝海舟など江戸を戦火から守った人達がいたので良かったです。
    それが今のイスラムテロはアフガニスタンの遺跡を破壊したり出鱈目です。
    武士道、騎士道は共通するものがありますが、イスラム原理主義者にはそれがないように見えます。
    反日運動の盛んな中国でも乃木大将の作った慰霊塔などはちゃんと残してあります。

    私は日清日露の経験者からは直接話を聞いたことはありますが、それ以前は私の秘密と言うTV番組がありましたが、
    メディアを通じて聞いたものが殆どで、幕末の話はその時に生きていた人から聞いた話を更に私が聞いたものもあります。
    私は幕末生まれの牧野富太郎博士や徳富蘇峰などの人達の話は戦後も生存していましたので、印象に残っています。
    私の祖父は元治元年の生まれですが、田舎ですから全然面白くありませんでした。

    私も歴史的事実は実際に経験したことは誰かに伝えて行きたいと思います。
    わたしも偉い人や有名人ではないですが先に生まれた人から結構聞いています。
    私自身の話は昭和20年に米空軍機から機銃掃射を受けたときの話が一番印象に強いです。

    そう見てくると旅行も歴史的事実を知っていると益々深みが出てきます。
    私が唯漠然と回らずにガイドがいればその町を英語でもガイドと一緒に回りいろいろな事が聞けるので頭に残ります。
    私が好んで軍事博物館、歴史博物館、民族博物館、宇宙センターなどへ行くのは個人的な興味もあります。

    勿論余り詳しくないですが一通りは美術館も有名どころは行きます。
    この掲示板では詳しい方も多いので芸術関係は遠慮しています。
    その為パリでもルーブルやベルサイユは当たり前と思ってもアンバリード(軍事博物館)ははずせないのです。
    言い出したら限りがありませんのでこの辺でやめておきます。ではまた

    • いいね! 0
    • コメント 1件

    またまた失礼

    ブルガリアって、書いてますね。ルーマニアのつもりでブルガリアに脳内置換されていたようです。度々、すみません。

    >フセインはだらしがない米軍に引き出される前に、自殺すべきだったと言っていました。

    それができれば、腐敗政治は執り行わなかったはず。アサハラショウコウみたいなもんですね。ホリエモンも同じ道を辿るのか。

    幕末の旗手(=なお、私の曾祖父も長州藩士でその一人!帯刀姿の「写真」が残ってます)が20~30代の若者が中心に行われ、明治新政府に至らしめた事は、いくら寿命が80余年に伸びた現代より、人の一生が短期だったとはいえ、現代の20~30代は足下にも及ばない、考えられない大きな画期的な事を日本人は果たたんだなと誇らしく思いますね。殊にその後のわけのわからない左翼活動へと導いた、70年代における大学紛争などと比べれば、雲泥の差です。

    ただ、他国の近代革命とは違って、最後の将軍、徳川慶喜自体が、かなり欧米向きな、新しい斬新な視点をもった人物だったらしいことが伝えられてます。立場上こそ、表だった活動はしてないにしても強く否定はしない、みたいな後方支援が、全体的な事情とうまくからみあって、明治維新が迎えられたのではないかとおもってます。