変わる人、変わらない人、難しいですね yugon さんへ いよいよ出発されるのですね。まずはご無事に旅行されることをお祈りいたします。 単刀直入にいえば人それぞれで価値観や人生観ががらりと変わってしまう人もいれば、さしたる影響もない人もいます。 インドを何度も訪れても変わらない人は変わらないし、たった一度きりのインドが大きな意味合いをもつ人もあります。 では、なぜその他多くの国ではなくてインドなのか。 その理由を考えてみますと この日本で、私たちは生まれてこのかた営々と生活をいとなんできて「常識」を刷り込まれてしまっています。 常識とは、広範な意味を含めて「文化」とも換言できます。 その常識に基づいた価値観、人生観とまったく対極に位置するのが、ほかならぬインドだからです。 先進国と途上国といったカテゴリーでは区別できない「常識」と「非常識」の相克。インドに行けば嫌でも直面します。 信じて疑わぬ価値観、人生観。それは普遍性をもつものです。それが堅固な者には疑いを差しはさむ余地はありません。 日常生活の普遍性からの逸脱を好みません。 ゆえに、インドを訪れたとしても異物として認識し、自己と同化するのを拒みつづけます。無意識の防御反応でしょうか。 けれど、普遍性に少しでも疑いをもつ生き方をしてきた者には、なにが絶対に正しいのか誤りなのか 境界線が希薄になります。 ちょうど一筋のひび割れから大きなダムに亀裂が走り決壊するように。 絶対的なものは存在しない。すべては相対的なもの。変化(へんげ) するもの。価値観、人生観の転覆です。 予兆はずっと前からあったと思いますよ、遍歴で。自分は人と同じことをしたくない、出来ないと漠然と感じていました。 それがインドへ行ってみて、こちらから identify したと言ったほうが正しい表現かもしれません。 注意していただきたいのは、なにもインドを過大評価しているのではないことです。それは誤りです。 私は、幸か不幸か自分一人の生活の責任をもてばいいだけの身分なので、誰にも邪魔されないし邪魔したくありません。 生きること、死ぬこと。さしたる問題ではないと考えられるようになりました。 石にしがみついてでも生き抜く。美徳ともされている生命の力。それすらごく些細なことに拘っているに過ぎないと思える。 世間から遠ざかりたくなりました。関心が薄れてきました。物欲がなくなりました。贅沢してみたい気がおこらない。 ケータイ、デジカメ、DVD は持っていません。必要性が感じられないから。無関心の領域はどんどん広がるばかり。 それから未知の国々ですね、ヨーロッパとか。そんな異国に旅行して遊んでみたいと思いません。まるで興味なし。 今、PC を使っていますが、やがてこれすら必要とは感じなくなるでしょう。 で、お金儲けにもまったく関心が無くなり、当然ビンボーです。(笑) 早い話が、ヒッピーにかぎりなく近い精神ですね。 世間様からどう思われようが構わない。金欠状態でもう渡印できなくとも、それはそれでまた良し。 「勝ち組」、「負け組」とかは同じ土俵に立っているからの比較であって、そんな物差しは私には意味がないことです。 最後に、好きな言葉を 「川の流れのように」、「後は野となれ山となれ」
ありがとうございます 覚えていて下さっていたようで、とても嬉しかったです。ありがとうございます。いよいよ出発です。ブーバーさんはとても感性の豊かな方だとお見受けいたしました。「メメント・モリ」も早速アマゾンで注文いたしました。 「では、なぜその他多くの国ではなくてインドなのか。」 ブーバーさんのおっしゃる通り今まで当たり前だと思っていた「常識」に疑問を抱いたのかもしれません。 よくよく考えてみると私自身もよくわからずそれでも行きたい思うのは、きっと私が持っている常識から一番離れたところのインドで、そこからヒトとして命あるものの普遍性を観たいと思ったからかもしれません。私や日本とは、全く違うところへ行ってその常識と自分の持つ常識(広義の意味での文化ですね)の中から本当のものを観て来ようと思います。 例えば先進国ならば似ているところもあるのでしょうけど、インドと日本は全然違いますね。宗教心や生きる意味醍醐味、貧富の差への考え方、刺激ある気候や食べ物、時に関する概念や善悪・正誤の判断、生きる概念死生観すらも、全く違う価値観にまずは触れてそのまま受け入れてみて自分と比較しその中で見つけられるもの… 自分の中に常識というフィルターがかかっていて囚われているものがあるはずですから、それを客観的に観られる良い機会です。 フト今思いましたが、「自分探し」という言葉、本屋でもよく見かけるしよく耳にもして最近流行っているようですが、こういう事なのかもしれないですね、答があるのかないのかも分からないけれど、多くの方が探しているものって結局同じものなのかもしれませんね。
Re: ありがとうございます yugon さんへ ご返事ありがとうございます。すでにもう何を探しにインドに行こうとしているのか分かっておられるように感じました。 私が、物欲がなくなるとかヒッピーみたいな精神とか言いましたから、グッと退いてしまったのではありませんか。(笑) けど一応仕事はしていますし、気のおけない仲間もいます。正直なところ高くても美味しいものは美味しいですしね。 だから、世間から完全に離脱してアウトサイダーになってしまったわけではありません。 インドにハマるなんて、この社会に順応できないゆえの現実逃避であるとか、なにか色眼鏡で見られがちです。 まったく興味がないのなら無いと、放っておいてくれればいいのに、見下したり、的はずれな攻撃をする人もいます。 彼らは、この日本の硬直した価値観が唯一無二のものであると信じて疑わないのでしょうね。 生き様の基礎となる部分の人生観や価値観。 それが、べつに、それも正反対の向きにあるとしたなら、それこそ脅威ですし排斥してみたくもなりましょう。 さらに上に。さらに前に。そんな上昇志向こそ私たちを幸福にしてくれる。そんな信仰に囚われているようです。 私は思うのですが、硬直した思考ほど順調なときはいいですが、なにか不具合に遭遇したら脆いのですね。 あっけなくポッキリと折れてしまう。 でなくて、柔軟な思考を持てれば風にそよぐ柳の木のように、その場その場でみずからを追い詰めることはありません。 世間一般の常識の枠など絶対なんてことはない。歴史が証明しているじゃないですか。 誰に勝ったとか負けたとか、そんなことに一喜一憂しなくとも、自分のペース配分でいいこと。自由になるべきです。 世間に無関心になるとはどういうことか。 泡のように沸いては消える人びとをその気にさせるブーム。商業主義ですね。 常に、新しいものは古いものより良いことだとの価値観を植えつける。最新であることが即これ善であると。 コマーシャリズムからの発信。その薄っぺらさが分かってしまうから、いちいち流される気持ちにならないのです。 私は、インドに途上国のままの昔ながらの風景を残して欲しいと望んではいません。 そんな勝手な思惑とは裏腹に、ヒンドゥーの説くところの死生観は人びとに根強く流布しています。 日々の営みも、この先、西洋文化によってすっかり駆逐されることはないでしょう。 あの逞しさは、過酷な自然環境のなかで数千年にわたって生き延びてきた下地があってのことですから 真似しようとしてもできませんよ、私たちには。 だから、この日本で暮らすにあたって せめてもの、凝り固まった価値観にほんの少しでも風穴を開けることができれば収穫です。 インドを訪ね、何によって何が得られたか。そんな答えは焦って見つけなくてもいいのです。 曖昧模糊のままでいいと思っています。理路整然と述べられる人のほうが、なにか胡散臭い気がします。 思うところを書きつらねただけですから、無理にレスしていただかなくても結構です。 それでは、お気を付けて、行ってらっしゃいませ!!
「メメント・モリ」 「メメント・モリ」を一読されることをお勧めします。 藤原新也の言葉の一つひとつを味わってみる。 インドがどんな世界なのかの足掛かりになるでしょう。 メメント・モリとは、「死を想え」という意味です。