有る時は米の飯(あるときはこめのめし)

ぼうふらおじいさんさん こんばんは 興味深く拝読させていただきました

有る時は米の飯(あるときはこめのめし)
http://www.sanabo.com/kotowaza/arc/2005/09/post_1078.html

私は祖母から「ある時は米の飯 無ければ ないなりに」と言われました
米でも暖房でも有るのが当然・・と 段々贅沢に慣れてきます
逆になくなれば、始めは文句を言いますが 文句を言っても仕方が無い・・とか思えば
ないことにも慣れてきます

3月の震災でそれを痛感しました(3月でも小雪が舞い散る時期だった)
暖房・食べ物・携帯電話・お風呂・交通手段・娯楽・TV・コンビニなど 
「有るのが当然!」と思っていたものが使えなくなって不安なのは最初の数日・・・
おにぎりだけの食事・暖房の無い職場・真っ暗な街・18時に閉店するお店・品物が無くなっちゃったコンビニ・バス停の行列・・・・慣れちゃうものです(笑)

多くの方のご助力で、ライフラインが復旧しても節電&NO暖房モードだったので、街には超厚着の人、携帯の代わりに文庫本を手にする人が目立ちました
でも 今ではそんな風景も少なくなり 「米の飯」に慣れるのも早いもんだ・・とか思います・・はい 

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2件のコメント

  • Re: 有る時は米の飯(あるときはこめのめし)・・・考

    のりーたさん

    宵越しのゼニはもたねえ・・とは少しニュアンスが違いそうですね。

    何とかなるからチマチマ暮らすな・・というおおらかさなんでしょうね。

    ですが戦中戦後の育ちはいつでも<全く無くなる>事態を恐れて暮らしていました。多少生活にユトリのある家庭ほどそうだったようで、このチマチマと溜め込んだ穀ゾウムシのいる古米が何かのお祝いか、家庭のささやかな行事に出てくる・・ということが良くありました。

    戦後しばらく経ってもういろいろなものが町に溢れるころ押入れの奥の奥のほうからサビの出たコンビーフやゆでアズキの缶詰が幾つか出てきたことがありました。

    時々顔をあわせて気炎を上げる昔の仲間(中学以来の男女組・・・)は何かことがあるとこういいます。

    「なんにも無くなくってもオレタチは大丈夫だよな。またあそこからやり直せばいいんだから・・・」

    ・・で、誰かがまぜっかえします。 「ほんとにあそこに戻れるかい・・?」

    「うーん もう歳だからな」 「なに言ってる!。苦労したのは親だろう」 「そりゃそうだ。 あの当時の親ってすごかったなあ。たぶん 怒ってばかりいたけど食べ物なんかはほとんど子どもに食べさせていたんだろうな・・」。

    一同 シュン。

    でも災害にあわれた方々には申し訳ありませんが、時にはいったん今の便利な暮らしを中断してみる・・ということは悪いことではなさそうです。

    東京でも計画停電とやら言うウサンクサイ停電騒ぎ・・原発継続の闇キャンペーンだったという穿った見方もありますが、で不自由な生活をつかの間経験しましたがこれから定期的にこうした便利さ見直し運動があっても良さそうですね。

    仕事に遠ざかった年寄りの寝言ではありますが。

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  • Re: 有る時は米の飯(あるときはこめのめし)

    のりーたさん、おはようございます。

    > でも 今ではそんな風景も少なくなり 「米の飯」に慣れるのも早いもんだ・・とか思います・・はい 
    そうですよね。

    一時期「節電節電」と云っていましたし、ラジオなどでは「今日の消費電力予想」をやっていましたが・・・
    名古屋で開かれた「COP10」では「もったいない」運動が生まれましたが、さてその後は・・・
    今の日本は何でも「通過点」ってな感じになってしまいますよね。

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    もったいない・・・

    めーじむらさん こんにちは

    そういえば 計画停電・・これはどうなったのでしょうかね??
    クリスマスの豪華なイルミネーションを見て そういえば・・とか思い出しました

    最近 報道機関では、3.11関係の映像に規制がかかっている・・とか聞きました
    (濁流にあらゆる物が飲み込まれ流される映像 瓦礫の山など)
    アメリカの9.11の際に航空機がビルに突っ込んだ・・映像が報道さえなくなったのと同じ理由です
    見ていると辛くなる人が多いのも事実です

    資源を大切にしよう・・を思い出すのは何がいいかしら・・・