レポート

フランスへ行ってきました 2018

公開日 : 2018年07月07日
最終更新 :

フランスへ行ってきました
5月の連休を挟んで、行程は以下のようにしました。
日本出発、
ドイツ・フランクフルト空港着

マインツ Mainz(市内観光、シャガールのステンドグラスのあるザンクト・シュテファン教会観光)

シュトットガルト Stuttgart(市内観光、ヴァイセンホーフ団地のル・コルビュジエ設計の住宅見学)

フランスへ移動
コルマール Colmar
(オー・クニクスブール城観光、「フランスの美しい村」ユナヴィル Hunawihrなど観光)

サラン・レ・バン Salins-les-Bains (塩鉱ミュージアム 観光)

エクサンプロバンス Aix en Provence (トゥーロン港観光、「フランスの美しい村」ルールマラン Lourmarin 及びアンスイ Ansouisなど観光)

シャンベリー Chambery (市内観光)

アヌシー Annecy(市内観光)

シャモニ・モンブラン (観光)

アヌマス Annemasse (フランスとスイスのジュネーブとの国境の町、ジュネーブ空港から欧州内乗り継ぎ帰国)

以下に見聞したことなどをレスの形で続けます。
(必ずしも行程の順とは一致しない。)

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  • 18/07/07 15:21

    10)フランスの美しい村、ルールマランとアンスイに行く

    エクサンプロバンスに数日宿泊していたので、フランスの美しい村ルールマラン(Lourmarin)とアンスイ(Ansouis)に日帰りで行くことにした。

    ルールマランへは9番バスで行けるようなので、エクサンプロバンスの大きなバスターミナルから出るだろうと思って、10分ぐらい前にバスターミナルに着き、20個ぐらいあるバス停を行ったり来たりしながら探したが、目的のバスがなく、バス案内所窓口で聞くと、「そのバスはカジノの前から出るので、ここにはバス停はありません。9時40分に乗るにはもうちょっと遅いです。」と言って、カジノのあるらしい方角を指さした。

    バスは9時40分の次は16時半で夕方乗って行っても帰ってこれないので、今日は乗り場を探してあとは町をぶらぶらするか、と言うことにして、観光案内所でカジノの場所を尋ねると、地図上は、カジノはバスターミナルからそれほど遠くないところにあった。言われた建物は、バス案内所から出てその先200mぐらいのところで見つけていたのだけれど、カジノと書いてなかったので、カジノかどうか疑問を持って観光案内所に行ったが(実際にはPasino と書いてある)、観光案内所の人が言うには、Pasinoはカジノを運営する会社の名前で、Pasinoと聞けばカジノだとわかる、とのことでした。

    翌日、9番バスでルールマランに着いた。
    この村は、中央の通りは商店がそこそこあり、裏通りは道が入り組んで、昔のまま家並みが残された感じで、標準的な「フランスの美しい村」であった。
    中央の通りの先にはかなり広い広場があり、その日は市の立つ日らしく、雑貨や衣料、チーズ、くん製、野菜、果物などの食料品の店がずらっと並んで、賑わっていた。
    村の中には、観光客がそぞろ歩き、カフェなどもよく客が入っていた。

    村を見下ろす小高い丘には城があったので、バスまで時間もあり、入って見た。城からは村が見下ろせる位置にあって、観光するにはいい村だった。


    次いで、バスを乗り継いでアンスイの村に行った。
    この村は、バス停から150mぐらい離れていて、こじんまりとして、観光客が多く来ることを期待していない、ごく普通の村で、たまたま昔のまま残ったので「フランスの美しい村」に指定されただけ、と言いたげな村のたたずまいだった。
    観光客もごくまばらで、カフェや村の雑貨屋も最低村人が利用できる程度の数だった。
    村の中を散策して、ゆっくり過ごせた。

    帰りにバスを待っていてふと見ると、バス停広場の後ろの山際に、石碑があるのに気がついた。近づいてみると、戦死者の鎮魂碑だった。
    フランスでは、その町から出た、第一次大戦、第二次大戦の戦死者(兵士と将校)の鎮魂碑を見ることがある。町によっては鎮魂碑とする銘だけのものや、全員の名前を彫ったものなどがある。

    ここの村のものは、戦死者の名前が彫られていて、第一次大戦で32名、第二次大戦で2名の名前が刻まれていた。
    第一次大戦で32名というのは、この小さな村で、戦死者が多くないか?
    この村の人口推移をネットで見ると、当時約600人だったようで、20歳以上の若者が主に招集されたとすると、この村の20歳から30歳ぐらいまでの男子の約半数が第一次大戦で戦死した計算になる。

    (フランス全土の人口比の戦死者率よりやや高いようだ。戦死率は配属された戦線にもよるだろう。フランスでは第一次大戦のあと、フランス全土で農業人口が約40%を占める中、農家の跡取りをなくした家や、娘に婿を迎えて農業を継がせようとしても、結婚相手になる男子がいないなど、困難な状況が続いたと、何かで読んだことがある。)

    最初、何でこの碑を村人などあまり来そうもない、村から離れた広場の奥の目立たないところに建てたのかと思ったが、そばに平たく切った石を組み合わせて、山水を引き、四角い溜めに入って流れていく形や、流しのように構成した長さ7~8mの施設があり、それは、山水を利用した石造りの共同洗濯場の跡であった。
    村では、水が豊富に流れ出る山際のこの場所を昔から共同洗濯場として使っていたと思われ、100年前の当時には村の女たちが洗濯に来る場所であっただろうことから、碑を建てる場所にしたのだろうと、納得した。

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  • 18/07/07 15:14

    9)サラン・レ・バンとエクス・レ・バンのテルムで泳ぐ

    サラン・レ・バン(Salin les Bains)の塩工場跡ミュージアムの見学に行くので、その町にある塩水のテルム(thermes プールとサウナ、ハマムが併設されている健康増進施設)で泳ごうと思った。

    旅行荷物に水泳パンツを入れてくるのを忘れたので、コルマールにいるときに、水泳パンツを売っている場所を観光案内所で尋ねると、近めのところで、大きめのモノプリがあるので、そこで見てなかったらまた来てください、スポーツ店は少し遠くなります、と言うことだったので、教えてくれたモノプリに行った。

    衣料品の一角に水泳パンツがあって、普通のトランクスや、大人用だけれど小学生の学校水泳(大人で言えば競泳用に近い)みたいな短い水泳パンツなどがあった。デザインを考えて28eurosのトランクスと、キャップを買った。日本でも使えるだろうし。
    それにしても、大人用の短い、小学生みたいな型の水泳パンツなど買う人がいるのだろうかと思う。こっちは安いけれど、、、。

    サラン・レ・バンのテルムに行く
    ネットで見ると、入場料が安め(12euros程度)なので、タオルは自分で持って行く方式だろうと、リュックにホテルのバスタオルを入れて持って行く。

    受付の人に、ここは塩水なのですか、水は飲まないですよね(フランスでは温泉だと、温泉水を飲む治療がある)、と尋ねると、笑いながら、飲みませんよ、海水より塩分が濃いそうです、と言う。
    プールはテルムとしては大きめで、来ていた人数も少なく、よく泳げる。プールの水を口に含んでみたが、海水より濃いかどうかは口ではわからない。
    水は加熱で沸かしているそうで、ぬるめだが、サウナとハマムがあるので、時々体を温めれば、問題ない。

    夕刻になったら、インストラクターが来て、プール内での健康体操の時間になったので、上がって、ホテルに戻った。
    プールの塩分は、おそらく、塩工場ミュージアムで連続的にくみ上げているものがこちらに送られているだろうと思った。


    エクス・レ・バン(Aix les Bains)のテルムに行く
    何日か後に、シャンベリー(Chambery)に泊まったので、そこから電車で10分のエクス・レ・バンのテルムに泳ぎに行った。

    エクス・レ・バンはフランス有数の温泉保養地で、保養のホテルが数多く建ち並び(内部に湯治用の設備などがある)、湯治客や観光客の多く集まるところである。ここのテルムは、数年前に来たことがあり、様子は知っている。ガウンとタオルは貸してくれる、入場料は18eurosぐらい。

    入場を申し込んでいると、係の人が、トランクス型の水泳パンツは禁止です、とパネルを示して、トランクス型の絵に禁止マークのついた図を示して、大丈夫ですか、と言う。
    「え~っ、これ、コルマールで買って持ってきたのと同じ型だ」と思って、持ってきた水泳パンツを出して広げてみせると、「あ~、それだめです」という。
    使える水泳パンツのサンプルをマネキンにはかせてあるのを指して、今入場するなら、あれをここで買うか、市内の店で買ってください、値段はここと市内の店とはほぼ変わりません、と言う。
    「前来たときには、これで良かったんですけどね」と言うと「あいにくですが、今はだめになっています」と言う。
    やむなく、18eurosの、フランスでしか使わないであろう小学生風水泳パンツを買って、入った。(コルマールのモノプリの衣料売り場の安い方と同じ形だった。)

    プールは20mぐらいあり温泉保養地のものとしては比較的大きく、また、ハマムは男女ミックスと女性専用があった。(他所のテルムで女性専用があるのは見かけない)
    温泉水を飲む場所もあり、紙コップが備え付けられている。ここの温泉水は酸味があるわけでもなく、エヴィアンのようなごく普通の味である。

    この日はウイークデーだったためか客が少なく、悠々と泳げたので、気持ちよかった。

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    Re:9)サラン・レ・バンとエクス・レ・バンのテルムで泳ぐ

    mamoruさん、こんにちは。

    大変楽しく読ませていただきました。この前、コルマールに寄ったときは、せめて街中だけでも1日うろうろしたいと思っていたのですが、スイスでの用事が長引き、コルマールに着いたのが18時、翌日朝にはパリに向けて出たので、何のために泊ったかよく分からなかった(?)ので、次回はぜひ近所も含めてをうろうろしたいです。

    本題は水泳パンツです。「フランス 水泳パンツ」でグーグル先生に聞いてみましたが、いまいち分からず・・・モノプリでもいいので、soldeのネットちらしかなんかに載ってないですかね。どんな形か興味があります。(というか、それをもって歩いた方が温泉施設で断られる確率が減るのですよね。)

    今はやってませんが、昔は必ず水泳パンツセットを持っていって、公共プールがあれば泳いでいたのですが、プール、温泉、風呂、ピーチなどでその国ではどんな格好が一般的なのかというのは、なかなか難しいです。上海のプールに行ったときは、みんなが競泳パンツでトランクス型を持っていかずに良かった、と思ったことがあります。コスタリカに行ったときは水着を忘れたので、適当な衣料品店に入ってビーチに行くのに適当な水着を・・・と聞いたら、えらく派手なトランクスを勧められました。「派手ではないか?」「いや、コスタリカでは普通だ。」というので買ってはいていったら、案の定、そんな派手なトランクスをはいたコスタリカ人はいなくて、やられた・・・と後悔したこともあります。

    なので、いっそすっぽんぽんの方がいいのですが、場所によってはタオルで隠すのがだめだとか・・・まあ、水着は難しいです。そのフランス水泳パンツはちょこっとまじめに探してみようと思います。

  • 18/07/07 15:09

    8)可動橋のモニュメント(南仏トゥーロンの近く、La Seyne-sur-Merにて)

    パリのエッフェル塔を作ったギュスターヴ・エッフェルの仏語版ウィキペディアを見ていたら、南仏のLa Seyne-sur-Mer(ラ・セーヌ・シュー・メール)の港に、彼の作品である可動橋(仏語で pont levant 、直訳で「上がる橋」)があると記されている。造られたのが1917年となっているので、エッフェルの生年から計算すると彼が85歳の時で、彼の作った会社が建設したのか、と言うことも考えられる。

    別途、pont levant La Seyne-sur-Mer の語で、仏語のウィキペディアを検索すると、この橋は1913年にDaydé(ダイデ)という会社に発注され、1917年にこの会社が作ったとなっている。Daydéはエッフェルの作った会社とは別の会社であったようだ。
    仏語の個人のブログには、この橋を見学に行った人が、エッフェルのものだとして書き込んでいるものがいくつも見つかる。
    造った人について、どうも釈然としない。

    今回、南仏のエクサンプロバンスを旅行したので、ここに行ってみることにした。
    また、橋は長さ40mあるそうで、どのような機構により上がるようにしていたのかも興味のあるところである。(重量物を上げる機械構造はどのようにしたのか)
    この橋のwikipedia↓ 
    https://fr.wikipedia.org/wiki/Pont_levant_de_La_Seyne-sur-Mer

    可動橋への行き方は国鉄駅 La Seyne-sur-Merから徒歩で2.5km程度である。La Seyne-sur-Mer駅は、マルセイユからトゥーロン方向に向かうと、トゥーロンの一つ手前である。
    まずトゥーロンに行き、旧港あたりで観光して昼食のあと駅に戻り、電車でLa Seyne-sur-Merに向かうつもりである。

    トゥーロンで昼食のあと、旧港の岸壁をぶらぶら歩いていると、レジャーボートやヨットの係留されている場所や湾内の遊覧船乗り場の先に、La Seyne-sur-Mer港に行く渡船があった。可動橋は港の入り口にあるので、船で行ければ好都合である。
    トゥーロンには軍港があると聞くが、旧港からは大きな船などは見えない。

    渡船に乗船し沖に出ると、航路を右にとって陸地と並行に走り出した。やがて軍艦が数多く見えてきた。このあたりが軍港のようだ。中に空母も見える。空母の周りには、駆逐艦のような小ぶりの艦艇が取り囲むように配置されて停泊し、潜水艇などの奇襲の魚雷攻撃に備え、盾としているかのようにも見える。渡船が通る所はずいぶんと艦船から近かった。

    行く手に、鉄骨構造のタワーのような、目的の可動橋が垂直に立てられているのが見えてきた。
    乗船時間20分ぐらいで港に着いて下船し、可動橋の見学に行く。
    入り口で、見学お願いしますと言うと、入場料は無料で、パンフレットもくれた。

    この可動橋は、その先にあった造船所に鋼材を運び入れるための鉄道橋で、貨車が着いたときのみ橋を下ろして貨物列車を通し、通常時は垂直に上げた状態で、船が通れるようにしていたそうである。

    橋が上がる構造は、鉄橋の根元の両側に取り付けた直径7~8mの巨大な歯車(ただし、半月形である)をモーターから減速された小さい歯車で稼働する構造だった。
    巨大な歯車の焼き入れなど、おそらく、当時の技術を集めて作ったものだろう。
    モーター室は元は鉄板の囲いであっただろうけれど、今は、ガラス張りで中が見えるようになっている。ただし、中には入れない。

    鉄橋内部のレールは外されていて、階段が取り付けられ、頂上の見晴らし台まで上れるようになっている。(鉄橋の内部に鉄板と手すりを取り付けた簡素なものである。)
    鉄橋の長さは40mあるそうで、垂直にしているから高さもその40mが高さになり、見晴らしが良く、トゥーロンが遠くに見える。

    降りて、係の人に、「この橋は、インターネットによると、ギュスターヴ・エッフェルが設計したと書かれているものをよく見るが、そうなのでしょうか」、と尋ねると、
    「いいえ、違います。Daydéと言う会社が造りました。エッフェルの時代のものと言うことでモニュメントにしています。」と言うことだった。この橋の所有は、今は、La Seyne-sur-Mer市になっていて、係員も市の職員のようだった。
    もらったパンフレットにもそう書いてある。
    (ネットには誤りも書かれていることがあるから、鵜呑みにしてはいけない。)

    ここにあった造船所は第二次大戦後、別の造船会社と合併され、1980年代によそに移転したので、この橋はそれから使われなくなって、垂直に立てたままだそうである。
    造船所の跡地は、今は広大な緑地公園となっていて、市民がジョギングしたり、憩いの場となっている。

    見学のあとは、La Seyne-sur-Mer駅まで40分ぐらい歩いて行き、電車で戻った。

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  • 18/07/07 15:00

    7)スミュール・アン・オーソワからヴェズレー Vezelayに行く

    Vezelayは、Sermizelles Vezelay 駅前からのバスで15分で行くコースが一般的のようだったが、国鉄ストの2日連続の日に当たっていて、電車の利用が出来ないので、以下のようにした。
    Dijonからスミュール・アン・オーソワ Semur-en-Auxoisを経由してアヴァロン Avallonまで行くバスを利用して、Semur-en-Auxoisで降りて一泊して観光し、翌日Avallonまでバスで行って、Avallon駅前からタクシーを呼んでVezelayに行くことにした。

    バスは一般の乗り合いバスで、所要時間は DijonからAvallonまで2時間、Semur-en-Auxois はその中間点ぐらいの所にある。

    Semur-en-auxois はちょっとした観光地で、川沿いに大きな塔が複数本あって、見晴らしのよい場所や町並みがちょっと観光地風、対岸からの塔が見える町の風景もいい、川沿いに古い町並みがあって散策には田舎の感じがいい、というような町である。
    川岸には共同洗濯場の跡もあった。

    Semur-en-Auxois に宿泊した翌日、午後のバスでAvallon駅前に着いた。
    電車に用はないが、小さい駅の中に入ってみる。ストで窓口は閉まっている。
    タクシーの電話番号はネットで調べてきたが、窓口の近くに、この町のタクシー会社の電話番号一覧表が貼ってあったので、役に立つかもしれないと思い、写真に撮る。

    タクシーは、自分で電話してもいいが、駅前にカフェ兼ホテルがあるので、入ってコーヒーを注文して休憩し、主人に、タクシーを呼んで欲しいというと、行き先などを尋ねたあと、OKしてくれた。
    駅にあった電話番号一覧表を写真に撮ってあると言って見せようとすると、タクシーは知ってるから、といい、すぐに電話をかけてくれた。

    電話先は知り合いのタクシーらしく、ちょっと長めの世間話をしてから、店に来た客がVezelayに行きたいから、来て欲しい、といっている。
    10分ほどしてタクシーが来たので、コーヒー代のほかに、タクシーを呼んでもらったチップとして1ユーロコインを出したが、チップはいらないと言って取らなかった。

    タクシーの運転手に、Vezelayまで行き、観光後降りたところでまた乗って戻り、17時15分のAvallon発のバスでDijonに戻りたいから、絶対迎えに来て欲しい、というと、間違いなく迎えに行くから、心配しないでくれ、という。
    (Dijonに宿泊の予約をしているし、前日にスーツケースをそこのホテルに預けて出たので、どうしても戻らないと都合が悪い。)

    運転手は、前の席に座って欲しいというので、運転手の横の席に座る。どこから来たのか、など旅行の話をしながら乗っていくと、16~17分でVezelayに着いた。
    料金は、30.15 eurosを指している。運転手は、30eurosでいいです、帰りもほぼ同じメーターになるから、帰りも30eurosでいいです、という。
    帰りは、必ず迎えに来て欲しいというと、料金は今は払わなくていいから、帰りにまとめて60euros払ってくれればいい、というので、そうすることにした。

    着いたのは村の入り口のようで、頂上のバジリク(教会)まで歩けば10分ぐらいで行ける、素晴らしいバジリクだから是非ゆっくり過ごして欲しい、と言う。
    迎えに来る時間は、出来るだけ長くVezelayにいられるように、タクシーの時間を計算して設定してくれた。

    中心の通りは緩い上り坂で、石畳の道が続く。両側は店が並んでいるが古い村の雰囲気を壊さないように、装飾はぐっと押さえ、建物も塗装は控えている。まもなく教会に着いた。古い造りの教会である。見たところ、たいへん古いが、このような教会はフランスでは時たま見かけるような気がする。

    裏通りに入ると「フランスの美しい村」の雰囲気のある家が入り組んだ細道に続く。教会の裏手には見晴らしのいい場所があって、フランスの大きい都市の方向を示す表示板があった。

    待ち合わせた時間の少し前に坂道を下ると、タクシーは既に来て待っていた。
    この村はたいへん良かった、と言うと、運転手は満足そうだった。

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    18/07/07 23:05

    ヴェズレーの行き方の参考になりました

    私は巡礼旅をしているので、いつかヴェズレーから出発したいと思っておりました。
    詳しく街の情報が書かれているので、とても参考になります。
    巡礼路沿いには、フランスの美しい村100選が沢山あります。ヨーロッパは田舎の街が素敵ですね。

  • 18/07/07 14:54

    6)サラン・レ・バン Salin les Bains (食塩工場跡 見学)

    フランシュコンテ地方のこの地域では、1200年以上前から、深く井戸を掘り、食塩水をくみ上げて加熱し、食塩を採取することが行われていたそうである。
    現在、サラン・レ・バンに残っている工場跡は、約50年前まで操業していた工場跡である。
    見学は、ガイド付き見学のみ、1日3回ほど見学ツアーがある。

    地下の食塩水から食塩を作る工場は、敷地の地下に作られた地下空間に、直径5m以上ある巨大な水車でくみ上げポンプを作動させ、地上の工場にて食塩にする工場だった。

    水車やくみ上げポンプが、巨大な地下空間に設置されているのは、おそらく、川から水を引き休みなく水車を動かすには、渇水期でも、ある程度の水量を確保するため、地下にした方が川から水を導きやすかったのではないかと思う。水車を使うのは、くみ上げポンプはゆっくりした往復運動で作動するため、モーターのような高速で回る性能は必要ないし、何より、電気代がいらない利点がある。

    かつては一つの水車で複数のくみ上げポンプを稼働させていた跡が残っているが、現在は、見学用に一台のポンプのみが、作動している。
    得られる食塩水は、飽和食塩水に近い濃度だそうで、1リットルの食塩水から、約300グラム以上の食塩が得られるそうである。

    工程としては、まず得られた食塩水を飽和濃度にまで上げるために、木で組んだやぐらの上に木の枝などを設置し、それに食塩水をかけて、風で水分を蒸発させて濃縮し、飽和にしてから加熱していたそうであるが、今は、そのやぐらは残っていない。

    くみ出した食塩水は、蛇口をひねると出るようになっていて、味わってみてください、というので、指につけて口に入れたが、ピリッと辛く、いつまでも口の中がしびれたような感じだった。昔、梅干しの瓶の底にしみ出した梅酢をちょっとなめた時のような感じがある。(梅酢は酸味があるが、塩だけでも飽和に近ければ口の中がしびれるような感じを受けるのは初めて知った。)

    このあたりに食塩水が出るのは、大昔に地殻変動で海が陸地に取り込まれ、海水が干上がって食塩の層が出来、その後地下に潜ったもので、このあたりは坑道を造って固まりで掘り出すほどの層の厚さがないため、自然に溶解して濃厚になった食塩水をくみ上げる方が費用が安く上がる、と説明書にある。

    食塩水から塩を得るには、加熱による。加熱する鍋は、幅4mほど、長さ20mほどある鉄の平鍋で、薪を下から燃やして析出した食塩を作業員がすくい取る。
    現在は、この装置が4個残っている。

    この地から20kmほど離れた場所に、アルク・エ・スナン Arc et Senans という町があり、そこには王立の製塩所があったが、こちらでくみ上げた食塩水をパイプで送っていたそうである。初期のパイプは電柱ほどの太さの丸太の中心に直径10cmぐらいの貫通穴を空け、それをつないで、20km先まで送ったそうである。
    サラン・レ・バンの工場跡に隣接の展示場に、この木製のパイプが何本か展示されていた。送水中に隙間からの漏れも相当あったそうである。

    アルク・エ・スナンは、以前に見学に行ったが、建物だけが残っていて、内部に装置などは置かれてなく、映像による見学のみである。
    そちらの建物は、王立だけあってデザインや配置もよく、工場にしては立派な建物であったが、建物にお金のかけ過ぎのような気がした。

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  • 18/07/07 14:51

    5)「フランスの美しい村」ユナヴィル Hunawihr に行く (その2)

    バスの運転手の言ったとおり、道は緩い登りだけれどたいしことはない。15分ぐらい歩いて行くと、フランス人の夫婦に出会った。「ボンジュール」と、どちらからともなく声をかける。この道はリクヴィルに行く道でいいのか尋ねると、もう少し行ったところに十字路があるが、そこはどちらにも曲がらずまっすぐ行けばリクヴィルに行くという。このご夫婦は、近くの町に住んでいて、気持ちのいい道なので、月に1回程度この道をハイキングしているとのことだった。

    言われたとおりに、どちらにも曲がらずにまっすぐ行くと、まもなくリクヴィルに着いた。この道は、両村を結ぶ旧道で、最短距離のようで、まっすぐの一本道だった。

    リクヴィルの村は、以前と変わらず上品な美しさを保っていたし、散策する観光客で賑わっていた。村を散策して、3時頃になったので、タルトフランベの店でちょっとおやつと休憩にすることにした。
    この店で出されたタルトフランベは、薄く焼かれていて、ベニヤ板みたいな板の上に、30cm×45cmぐらいの、予想外に大きな長方形で出された。かなり薄くてやや固めに焼かれている。ベニヤ板みたいな板は、何度も使われたようで(タルトフランベの裏面が堅くなっているので、切るとき力を入れないと切りにくい)、ナイフで切ったときの傷が多数見られる。味はまあまあである。
    以前に、この村で食べたタルトフランベは、厚めでふっくらしていて、丸形の大きい陶器の皿に出されたが、あれもよかった。店によって、形が違うようだ。

    この村は様子を知っているので、比較的早く散策も終わり、まだ時間がだいぶあるので、ユナヴィルに戻ってから、リボーヴィレまで行くことにした。

    来た道をユナヴィルまで戻り、元の洗濯場の屋根の下でしばらく休憩し、リボーヴィレへの矢印のある道に入った。バスの運転手の言っていたとおり、道は平坦な道で、迷うような所もなく、ほぼ一本道である。こちらの道は、時たま車が通るが、スピードの出せる道ではないので、大して気にはならない。

    しばらく歩くと、ベビーカーに赤ちゃんを乗せて押してくる若い母親に会った。「ユナヴィルに戻るのですか?」と尋ねると、「そうです」という。ユナヴィルから来てリボーヴィレで買い物を少しして、住んでいるユナヴィルに戻るそうである。片道40分の道のりをベビーカーを押して赤ちゃんと往復するなど、フランスのママさんは強いな~。

    しばらく歩くとまた別のベビーカーを押したママさんに出会った。ユナヴィルから来て戻るのですが、と尋ねると、そうだという。「赤ちゃんを連れて、元気がいいですね。」というと、「今日は、たいへんいいお天気で、太陽をいっぱい浴びないと。」という。

    4月の下旬で、まだ日差しが強くないためか、また、フランス人は太陽に当たりたがることもあり、先に出会ったママさんも、赤ちゃんの日覆いは下げて、赤ちゃんに太陽が当たるようにしているようだった。日本とはずいぶん違う。
    それに、あのユナヴィルの村は、「美しい村」かもしれないが、若い人が住むには、何もなさ過ぎで、子育ての間に、リボーヴィレに行ってこようと思う気持ちはわかる気がした。

    まもなく、リボーヴィレに着いた。夕刻が近づいたので、観光客もそろそろ引き上げかけているようだった。村の中を散策して、バスで帰途についた。

    今回、たまたま3ヵ村を歩くことになったが、ユナヴィルを挟んで、時間があれば、3つは徒歩で歩ける位置関係にあった。このあたり、農道のような未舗装の道はあるが、正解の舗装路に入れば、車も通らないし、迷うこともなく、ハイキングには良さそうである。
    でも、初めてなら、一日に3ヵ村も回ることは推奨しない。せいぜい2ヵ村にしておいた方がいい。このような村を数多く一日で回ると、印象が混じって、あとからその違いが思い出せなくなると思う。(あとで写真を見て、そうだったか、という感じ)

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    mamoruさん、健脚ですねー!

    mamoruさん

    コリュウです。
    今回は、マインツからスタートのフランスの旅だったんですね。

    ツェレンベルクのワイナリーにワインを買いに行って、リクヴィルからリボーヴィレに帰るバスで、1番前の席に座ったら、運転手さんに話しかけられました。「土曜日にコルマールから乗ったでしょ」と。
    mamoruさんのようにフランス語ができないので、会話にはなりませんでしたが。(^^;

    ユナヴィールから乳母車を押して、リボーヴィレですか!
    ユナヴィール方向からリボーヴィレに向かうと、3つの城が見えて、いいですよね。

    本当はリボーヴィレからリクヴィルまで行きたかったのですが、午前中にリボーヴィレの城の途中まで歩いたりして、日曜日でバスもなく、ユナヴィール方向に途中まで行って引き返しました。

    11月でブドウは収穫され、遅摘みのゲヴェルツトラミネールが残っているくらい。
    でも、摘み取られた幹に残るブドウ、根元に落ちている房は、緑や薄い紫の粒が混じり、宝石のように思えました。
    あのブドウ畑の道を、いつかリクヴィルまで歩いてみたいです。

    続き、また拝読させていただきます。

  • 18/07/07 14:48

    4)「フランスの美しい村」ユナヴィル Hunawihr に行く (その1)

    アルザス地方のストラスブールからコルマールにかけての地区には、「フランスの美しい村」のリストに掲載されている村がいくつかあり、ユナヴィル Hunawihr もその一つである。位置的には、リクヴィルとリボーヴィレの中間で、バスもコルマールからリクヴィル経由でリボーヴィレに行くバスで行ける。

    コルマール駅前のバス停で11時過ぎのバスに乗り、運転手に、ユナヴィルに行きたいというと、往復の切符にしますか、と尋ねるので、往復にします、というと、今日は学校が休みの日なので(まだ復活祭前後の学校休みの期間だった)、帰りは夕方18時半までありませんがいいですか、といわれた。時刻表には、3時のバスがあったので、それで戻ろうと考えていたのだが、「フランスの美しい村」で現地6時間はなかなか過ごすのがたいへんだ。

    始発バス停の駅前からの乗客は私一人で、発車まで時間があり、運転手と話していても差し支えない雰囲気で、運転手は、ユナヴィルで時間があったら、今日は天気がいいので、リクヴィルかリボーヴィレまで歩いて行き、そこからバスに乗ってもいいですよ、という。
    どちらも歩いて40分ぐらいです、という。バスの往復チケットは、帰りはそれらの村からはどこからでも乗れると言うことだったので、往復切符を買って、ユナヴィルからどちらかに歩いて別の村を観光して、夕方のバスで戻ることにした。

    リクヴィルもリボーヴィレもかつて行ったことはあるが、もう一回行ってもいいだろう。
    どちらが行きやすいか尋ねると、リクヴィルは登りになっているから、平坦な道のりを選ぶなら、リボーヴィレの方が楽に歩けるでしょう、という。

    12時少し前にユナヴィルに着いた。
    バス停の前には、山水を引いた共同洗濯場の跡が残っていて、全体を木造の屋根でカバーした休憩所となっていた。昼頃で、2家族が屋根の下に設けられたテーブルで、昼食を広げ始めたところだった。ピクニックにはちょうどよい場所となっていた。

    村は比較的小さく、商品を売る店はなく、カフェ兼軽食を出す店が1軒あるのみだった。村のたたずまいは、昔の状態を保ったまま現代まで続いた感じで、雰囲気はよく、家々は空き家もなく、手入れされていて、住民は「フランスの美しい村」の状態を維持しながらそれぞれの生活をしている感じだった。
    商業化された、店の多い「フランスの美しい村」とは対極にある村だった。

    村の中や、周囲の畑のあぜ道などを歩いて元の洗濯場の休憩所に戻ってきた。まだ、5時間ぐらいある。
    さて、リクヴィルとリボーヴィレのどちらに行こうか、、、。
    リクヴィルは、上品な美しさがあって、もう一度尋ねてもいいと思う雰囲気がある。
    リボーヴィレは中心の道のみが観光場所で、裏通りは観光の雰囲気はなく、中心の通りは商業化されすぎの感じだ。「フランスの美しい村」にも登録されていない。

    リクヴィルは多少登り道らしいが、時間もあるのでリクヴィルに行くことにした。
    村に、周辺の地図を書いた看板があり、リクヴィルに行く道、リボーヴィレに行く道も表示されている。
    矢印で示された道に入ると、舗装されているし、ハイキングにちょうどよい幅である。車が通る道は、別の所に広い道があり、この道は農道で、一般の車は入ってこないようであった。

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  • 18/07/07 14:43

    3)オー・クニクスブール城(Chateau du Haut-Koenigsbourg)

    アルザス地方にオー・クニクスブール城という城があり、見晴らしがいいそうだ。行ってみることにした。
    行き方は、StrasbourgとColmarの中間にあるSerestatの駅前から出るバスで30分である。
    バスはかなり登るが、バスを降りてからも少し登り道である。海抜757mだそうである。

    城の内部には、甲冑や弓矢、槍、剣などの武具や、この城の歴史資料などが展示されている。

    この城は中世に山の上に造られた防御構造を持った城であるが、西暦1600年代の前半に火災に遭い、その後放置され廃墟のままだったそうである。
    その後、1870年の普仏戦争で、アルザス地方がドイツ領となった時、ドイツのものとなり、
    それから、30年ほどたって、ドイツの皇帝ウイルヘルムⅡ世は、祖父が普仏戦争で獲得したアルザス地方のこの廃墟の城にたいへんご執心で、ドイツの版図がアルザスに及んでいることを内外に示し、アルザスのドイツ人を鼓舞するために、この城を修復して誇示し、ミュージアムとして展示しようと考えたそうである。

    城などの石造りの建物は、床と屋根を支える構造物は木材で出来ていて、火災に遭うとこれらが焼けて崩落するので、壁だけが残った廃墟になる。
    修復前と後の写真を見ると、修復前には壁の石が半分ぐらいなくなっているところも見られ、石が自然に崩壊したのではなく、ここの石が持ち去られたのではないかと、感じた。

    直方体の石を積み上げた廃墟は、フランスでは、その石を住宅建築の際、外して持ち帰り、地下を掘ったとき基礎石として使えるそうで(石造りの住宅は重いので、固い地盤や岩盤が出るまで土を掘りそこに石を並べて地下室とすることが一般的である)、ここの石は直方体に切った石で、二百数十年の間に、蟻が砂糖の山を一粒ずつ運び出すように持ち去られ、セレスタなど下の町の公共建築物や、住宅の基礎石になってしまったのではないかと、想像する。

    修復は1901年から1908年までかかり、修復時の写真を見ると、何十メートルという巨大なクレーンが城の上で稼働しているのが見られる。

    クレーンには電気が必要で、この当時、まだ下の町には電気が来ていなかった時代に、どのように電気を供給したかが、写真で展示されている。
    電気は、発電機が必要で、写真に写っている大きさから、日本の蒸気機関車ぐらいの感じの自走式、蒸気発生装置と発電機を車両にセットで組み込んだ大型の装置を山の上まで、レールを敷いて上らせて、レールの上に停めて使ったそうである。

    客車を引く蒸気機関車ではないから、動輪はそれほど大きくはないが、車輪があって全体の大きさや外見は蒸気機関車とほぼ同じである。重量があるので、当時はトラック等で蒸気式発電機を運ぶことは出来なくて、鉄道線路を町から引き(近くの町はセレスタで、そこから先は線路でドイツ本国までつながっていた)、山はジグザグに折り返しながら登れるようにレールを敷いて現地に定置して、石炭を焚いて電気を発生させたそうである。(線路は、石炭や修復用の石を運ぶのにも使われただろう。)

    工事中、皇帝ウイルヘルムⅡ世は、工事の視察に訪れたそうで、そのときの写真も展示されている。

    この説明を見てから、改めて壁を見ると、古い何百年も経って風化の進んだ石の壁の上に、同じ種類の石で、新しい切石の積み上げられた部分が乗っていて、なるほど、修復と言っても、石をかなり積み上げていく、大工事だったのがうかがえる。

    皇帝のおもわくとは裏腹に、修復の完成から6年後に第一次世界大戦が勃発し、ドイツは敗戦国となったため、アルザスはフランスに帰属することになった。
    見学者は、話している言葉から、ドイツ人と思える家族もかなり見学に来ていた。一連の展示や説明を見て、何を思っただろうか。

    城からは見晴らしがいいし、城を降りかけて振り返って見上げると、城の勇姿が端正で美しかった。

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  • 18/07/07 14:41

    2)シュトットガルトにあるル・コルビュジエ設計の住宅見学

    3年ほど前、南仏のカップ・マルタン(Cap Martin)のル・コルビュジエの休暇小屋を見に行ったとき、ガイド付きの見学で前半の1時間は海岸の斜面に建つ、Eileen Grayと言う人の設計したVilla E-1027 という、白い別荘の説明と見学だった。建て方は写真で見たシュトットガルトのヴァイセンホーフ団地のル・コルビュジエの設計した住宅に似ている感じがした。
    今回、機会があったので、シュトットガルトのル・コルビュジエの作品を見に行った。

    斜面に建てた住宅で、窓の取り付けが横に連なった連続窓なのが、Villa E-1027と同じで、外観的には似ていると感じさせているようだった。(いずれも1927年の建築、鉄筋コンクリート造)
    これらの窓の形は横一線の窓で、内部からは横にたいへん開放的な感じを受ける形だが、日本では地震があるので、鉄筋コンクリート造住宅でもあまり見かけない。

    見学できる棟は、鉄筋コンクリート2階建てで2戸の間に壁があり、横並びでつながった形である。道路に近い方の家は受付、事務所、模型や写真の展示場所となっている。壁を隔てた奥の家は、何も置いてなく、住居としてどのようなものか、わかるような状態で見学できる。

    2戸は、別の家族が住むために設計したので、家の中から隣の家に行くことは出来ない。一旦玄関に出て隣に行くか、屋上に出れば、屋上は隣とつながっている。
    屋上は、洋風の庭のような、植え込みが出来るように花壇枠が高低差を持って設計の時から作られていたようで、草花や灌木が植えられていた。屋上出入り口が直接となりの家から見えないように、コンクリートのついたてのような障壁があるが、屋上の一方の側は遊歩道のようになっていて、行き来が出来る。ル・コルビュジエは、屋上を地上の遊歩道のように考えていたのだろう。屋上にたたずんでも、気分が爽やかになる感じがした。

    すぐ近くに、ル・コルビュジエの設計した1戸建ての住宅があるようだった。(こちらは2戸連続ではなくて1家族用。)居住中で見学は出来ない。
    外観は似ている感じだった。

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  • 18/07/07 14:40

    1) シャガールのステンドグラスを見に行く(ドイツ マインツ)

    ドイツはマインツ市のザンクト・シュテファン教会にマーク・シャガールが最晩年に製作したステンドグラスがあるので、見に行った。

    教会は、カテドラルではないが、町にある教会としてはやや大きめで、入り口から中を見ると、全体の窓がブルーの基調の色ガラスで作られたステンドグラスがはめ込まれている。入り口付近は、明らかにシャガールとは違う作風の窓があるが、横壁の窓はシャガールなのかどうか、ちょっと疑問を呈するような木の葉または波の絵柄で、奥の祭壇の周りは明らかにシャガールのものだ。

    教会の売店の係の人に尋ねると、正面祭壇周りとそれに続く横壁の3枚(横壁は左2枚、右1枚が該当)の窓を含む9枚の窓がシャガールで、ほかは他の作者のものだという。
    祭壇を半円形に取り囲む窓のうち、最も手前の左右のもの各1枚は、「祭壇には入らないでください」と書かれているので、祭壇に踏み込んで正対して見ることはかなわず、やや斜めにしか見られないのはちょっと残念である。
    ここのステンドグラスは作者最晩年のものなので、人物、動物、風景などそれまでに製作した作品に出てくる絵柄はすべて含まれているような気がした。
    横壁の3枚は木の葉のようなまたは波の重なりのような絵柄で、この絵柄は、フランスのシャガールのステンドグラスのある教会にも使われていたと思う。
    シャガールが没したのは1985年3月で、ここの教会のシャガールのものが1985年までとなっているので、没する直前までここの製作に携わっていたことになる。

    ここで売っているステンドグラスの写真を掲載した冊子を購入した。
    (仏語の冊子を見ると、ドイツ語の Sankt Stephan 教会は、仏語では Saint Etienne 教会と、Stephanの綴りがEtienneに変わるようだ。ふ~ん、そうなんだ。この仏語発音はサンテチエンヌ。)

    それによると、教会は、シャガール亡き後、Charles Marq と言う作者に、残りの窓を完成させるように依頼したそうである。Charles Marq は、シャガールが使っていたガラス工房の同じガラスを使い、シャガールの雰囲気を壊さないように、また、自身のオリジナリティーも加えて、全体を完成させたそうである。(横壁と入り口ファサードの窓を完成。面積的には、Charles Marq のものがシャガールの製作した面積の3~4倍ありそうである。横壁がちょっと感じが違うのは、Charles Marq が工夫したところかもしれない。)

    マインツ市ではこの日は、何かワインの祭りの日だったのか、マルクト広場からライン川に掛けての芝生地帯にはたくさんの人出があり、グラスワインを売る屋台が出て、ワインを飲みながら談笑する人たちがたくさんいた。ワインは、白ワインを飲む人が97%、ロゼが3%ぐらい、赤ワインはゼロである。屋台でグラスワインを買う人や、ボトルとグラスを持ってきて仲間で飲む人などがいた。芝生に座り込むか、立って何か話しながら飲むようである。
    つまみなどを食べる人はなく、ただただワインを飲んで談笑するお祭りらしかった。

    広場には、市も立っていて、農産物の店には白アスパラガスがうずたかく積まれていた。
    大人の親指より太い直径3cm以上、柔らかそうな感じである。ドイツ人は好きなのだろうと思うが、ホテル滞在なので、買って帰ってゆでるわけにもいかない。レストランで供されることはあるだろうけれど、ドイツ語のメニューがわからないので、今回はパスした。
    このあとフランスに移動して、アルザス地方のスーパーにちょっと並んでいるのを見たが、ドイツほどの量は置かれていない。白アスパラガスは、アルザスを離れると、フランスでは見ない気がする。多分、冷涼な気候のところで栽培されるものだろう。

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