レポート

フランスへ行ってきました 2017

公開日 : 2017年08月23日
最終更新 :

フランスへ行ってきました
5月の連休を挟んで、行程は以下のようにしました。

日本出発、英国ロンドン、ヒースロー空港着
ロンドン(ロンドン市内観光、トンブリッジ市近郊テュードリー村のシャガールのステンドグラスのある教会観光)

ポーツマス Portsmouth(市内観光、チチェスター市のシャガールのステンドグラスのあるカテドラル観光)

シェルブール Cherbourg(ポーツマス港からフェリーにて英仏海峡を渡りシェルブール港へ)
(シェルブール港の退役原子力潜水艦の内部見学、Saint-Vaast-la-Hougueにあるヴォーバンの要塞観光)

サン・マロ Saint Malo(カンカル Cancale観光、ディナールDinardの潮汐発電所見学)

ル・マン le Mans(市内観光)

パリ Paris(列車乗り換えの移動 Montparnasse駅→Bercy駅)

ブリアール Briare(エッフェル塔を作ったエッフェルのロワール川の上を横切る運河見学)

サンス Sens(市内観光)

ディジョン Dijon(市内観光)

ムシャルド Mouchard(アルク・エ・スナン観光)

ストラスブール Strasbourg(市内観光)

サン・ルイ宿泊、バーゼル空港から英国内乗り継ぎ帰国

以下に見聞したことなどをレスの形で続けます。
(必ずしも行程の順とは一致しない。)

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15件のコメント

  • Re:フランスへ行ってきました 2017

    mamoruさん、こんにちは。

    ひととおり拝見しました。発電所とかにも行かれるのは、ひょっとしてお仕事柄、なんでしょうか。ヨーロッパの工業国というと、まずはドイツですが、フランスの産業関連も色々と面白いものがあるので、いつか系統だって見に行きたいと思うので、色々と参考になります。ストラスブールのBarrage Vaubanの話も面白かったです。ストラスブールは先日、ようやく市内をうろうろしたばっかり(その前は大聖堂とPetite Franceぐらいしか見てなかったです。)で、そういうものもあるんだ・・・とこの辺は「へえ・・・」という感じです。

    もっとびっくりがクレープとガレットの話で、今までフランス通の人に何度もこの二つの違いを聞いたことがあるのですが、結果として「ガレットはそばの入ったクレープ」と思っていたので、パリで通じないというのはなかなか衝撃です。・・・そば粉が入っているものが名産、というのは、日本でも貧しい地域(長野が貧しいとは思いませんが、山梨は貧しいですね。・・問題発言か。)の名産と思っているのですけど、フランスでそば粉の薫るクレープは食べたことがないので、これも宿題の一つとしたいと思います。(全く外れますが、朝鮮の冷麺もそば粉が入っているのが本当(?)という話を聞いて、これは平壌の国営レストランで食べた冷麺がそば粉の香りがして、本当なんだと思ったことがあります。日本や韓国でもそば粉の入った冷麺はあるのでしょうが・・・)

    今年のフランスは史上最低の葡萄の収量ということで、最低だった昨年より18%下回る予定、というのをフランス2でやってました。長野、山梨は昨年より一週間以上遅れているとのことで、どこもかしこも異常気象。おいしいワインは今後できなくなる・・・なんていうのは考えすぎですか。また、アップしてください。楽しみにしています。

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    17/08/27 23:49

    高島たいらさん

    こんにちは

    レスありがとうございます。

    8月も終わりに近づいてきたので、そろそろフランスではブドウの収穫が始まる時期ですね。
    最も早いのは8月末の地中海に面するプロバンスやラングドック地方で、順に北に上がって行き、9月中旬から下旬頃がアルザス、10月初めがロレーヌ地方の北部、大西洋沿岸のシャラント地方などとなっているようです。

    ブドウの取り入れを仏語でvendangesといい、短い期間に人手が多くいるので、フランス人にとっては特別なもののようです。

    摘み取る人、畑からトラックまで運ぶ人、トラックやトラクターの運転手などが、通いの作業者も少しいますがほとんど臨時住み込みで農家の屋根裏や納屋の二階などに泊まり込むので、畑で働く人の他に、まかないの料理人、年齢不問でキッチンの後始末(端的に言って皿洗い係)などの人が必要で、
    この時期になると、これら諸々の作業員の臨時募集が仏語のネットで見られます。

    畑のブドウが最もワインに適した状態になったとき、時機を逸せず持っている畑を摘み取ろうとするので、朝から夕までみっちり仕事が続くようです。摘み取る係や畑から出す係はかなりきついので若い人じゃないとその農家の収穫終了までつとまらないらしいです。(きつい仕事なので、報酬は良いようです)

    私が見かけたのはアルザスで、お昼になるとトラックやトラクターなどで農家の庭に作業者を連れて戻り、臨時のテーブルで昼食をとっていました。昼食休憩後はトラックに乗ってまた畑に出かけていってました。

    ひっきりなしに摘み取ったブドウを醸造所に運び入れ、直ちに搾るので、絞りかすが連続で出てきて、中規模の醸造所では、ベルトコンベアで高く上に上げたところから、大型トレーラーの荷台(日本のダンプトラックの荷台の1.5倍ぐらいの長さがある)の中にぼろぼろとかすを落として、運び出していくようでした。

    ひょっとしたら、ブドウの絞り汁をとってローリーで醸造所へ運ぶ方式をしている、農業だけで醸造業ではない農家もあるかも知れません。


    ワイン好きにはブドウの作柄が気になるところでしょうけれど、私は食事がおいしくいただける程度にグラス一杯あれば良い、程度の者なので、それほど気にかけてはいません。
    たいした料理でない(安めの食事)の時は、グラスワインで一番上の安めのもの、ちょっと張り込んだ食事なら給仕人に、グラスワインが希望だがどれが良いか尋ねて、お勧めを頼む様にしています。

    安めのものはキッチンの奥にある樽から出して持ってくるし、
    お勧めは壜で持ってきて注いでくれることが多いですね。
    壜で持ってきたワインは村の名前が付くけれど、数が多すぎて、おいしかったものでも名前はあまり覚えていません。

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  • ウォーバンダム

    mamoruさん

    コリュウです。
    ルーアン行きで、サンラザールですったもんだのあと、アルザスに移動して、ストラスブールには、5/9、5/10と2泊しました。

    mamoruさんも、同じ頃にいらっしゃったのですね!

    ヴォーバンダムは、2014年にダムの上からの眺めを再び!で行きましたが、下の通路は人気もなく、歩くのをやめました…。

    mamoruさんのレポートで、様子がわかりました。
    軍事的に使われたと知ると、なおさら興味が湧きます。

    ストラスブール滞在中は、ドイツ国境の Wissemburgに足をのばし、ドイツワイン街道の終点にあるワイン門も見てきました。

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    17/08/25 00:06

    コリュウさん

    こんにちは

    レスありがとうございます。

    ヴォーバンダムの屋上テラスからの眺めは、プチットフランスの入り口(川からの入り口)がよく見えて、景色は良いですね。

    仏語のwikipedia↓
    https://fr.wikipedia.org/wiki/Ponts_couverts_(Strasbourg)
    引用したサイトの一番上の右側の枠内の写真はヴォーバンダムの屋上テラスから撮った写真だそうです。

    三角帽子の四角い塔が見えていますが、この塔の間に架かっている橋(3本)は最初は木造で屋根付きだったそうです。それで、ここの呼び名は、ponts couverts(直訳すればカバーされた橋、普通の言い方で、屋根付きの橋)となって、その後、石橋で屋根もないものに変わったけれども、呼び名だけは「屋根付きの橋」のままだそうです。

    屋上から見えるプチットフランス地区の入り口に見える四角い塔は1200年代頃にストラスブールの防衛のために造られたものだそうです。
    塔から、下の川(運河)を船で来る敵を弓矢で射るための窓が付いているそうです。

    ヴォーバンの時代、この塔では大砲の技術がそれまでより向上したので、追加の施設が必要と考えて、ヴォーバンダムを考えたそうです。

    塔は、現在4本ですが、建設時は5本あり、1800年代に左から2本目が火災で内部が焼け落ちたため、撤去されて、4本残っているそうです。


    Wissemburgはなかなか良い町のようですね。次回、時間があったら行ってみたいと思います。

  • 17/08/23 08:49

    13)パリ・モンパルナス通りのクレープ屋、Josselin(ジョスラン)その2

    食べ終わって店を出る頃には、満席状態だった。
    料金はクレープの値段が8.4ユーロ、ブルターニュあたりだと、普通のもので一皿2~3ユーロで、Josselinのはダブルなのと、パリの場所代が高いからこんなものか。

    出口近くがオープンキッチンになっているので、見てもいいかと尋ねたら、OKというので一皿出来るまで見せてもらった。

    まず、丸い鉄板に生地を落として手際よく丸く広げる。(これは他も同じ。クレープ屋で見せてもらったことは何回かある。) 
    生地がやや厚く出来るが、なぜか穴だらけである。普通はあまり穴が出来ず に伸びるが、何か生地に入っていて、穴が出来やすいのか。生地には何か味の決め手になるものがあるだろうが、その影響だろうか。

    次いで、料理人の後方に直径20cmぐらいのバターの大きな固まりが置いてあり、そこから大型のナイフで軽く50g以上を切り取り、表面に伸ばして溶かす。(バターは元々たいへん柔らかそうな種類で、常温だからか、大して力もかけずに切り取れる感じである。)
    バターがジュッと言ったら、具を上からばらまく。見たのはちょうど、私が食べたのと同じチーズとタマネギだった。

    10秒後ぐらいに、後方のバターの横にうずたかく何十枚もクレープがあらかじめ薄く焼いて準備してあるものが積まれていて、それを一枚とって具の上にかぶせる。
    かぶせて20秒ぐらいしたら折りたたんで出来上がりである。早い。
    上からかぶせるから、熱がこもって早くできる利点もあるだろう。
    注文が入って焼いたのと、あらかじめ焼いたのをかぶせるから、coupleと称している様だ。

    でも、あの惜しげもなく塗ったバターの量は半端じゃないね。バターがいい風味を出すものを使っている様だが、食べたとき、中心部分はバターでまぶした具入りのホットケーキを食べたみたいで、そば粉のクレープという感じではなかった。

    それに、店を出たあとも、口の中にバターのにおいがこもったたままで、何時間も残っていたのには気持ちがよくなかった。食後にコーヒーとか飲むべきだったか。でも、それで解消する保証はない。

    日本のブログを見ると、「さすがに本場のクレープはおいしい」と書かれているのを見るが、ちょっと違うんじゃないかな。パリへ行って、Josselinのものだけを食べて、フランスのクレープを代表しているものを味わったと思わないで欲しい。
    ブルターニュのクレープは、もっとそば粉のにおいが強く、すっきりした素朴な感じだと思う。
    バターで食べさせるJosselinのものはクレープでは異端といえる様なものだろう。だけど、繁盛しているから、いずれ他の店もまねをする可能性はあるし、「パリの本場」のクレープはJosselinのタイプのものを言うんだ、ということになるかも知れない。


    注1)「Montparnasse通り」はRue de Montparnasseで狭い通りです。Montparnasseには「モンパルナス大通り」と訳される大きい通りBoulevard du Montparnasse というのがあるから、行くときは注意してください。

    注2)そば粉のクレープは「ガレット」というのが本当の言い方だとするブログなどがあるが、フランス人全部がそば粉のクレープをカレットと呼ぶわけではない。パリ近辺に生まれ育った人はそば粉のクレープをガレットとは言わないし(ガレットは丸形のクッキーを想起する様だ)、ブルターニュでもフィニステール県など西の地域ではガレットとは言わず、クレープという。ガレットと呼ぶのは、ブルターニュ地方の東の地域の住人だ。
    そのことについて、以前、ブルターニュに旅したとき、現地の人に尋ねたレポートを書いたので、興味あれば参考にどうぞ。
    https://bbs.arukikata.co.jp/bbs/tree.php/id/546357/-/parent_contribution_id/385836/

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    17/08/23 13:56

    Josselin(ジョスラン)

    こんにちは。

    mamoruさんは、フランスが好きな様で、あちこちにお出かけですね。
    今回の旅のレポートでJosselin(ジョスラン)というワードが気になり、中を覗きました。


    私にとってのJosselin(ジョスラン)は、地名です。
    何かに出ていた、「ジョスランの街角」と書かれた3㎝ほどの小さな「写真」に引き込まれて、、場所を探して出掛けました。

    Josselin(ジョスラン)は、ブルターニュの内陸部の小さな中世の町で、
    1999年の旅行で立ち寄りました。
    とても魅力的な町でした。



    mamoruさんのあちこち行かれた所をみて、
    何となく行ってほしいなー、という所が有ります。
    それは、フランスの隣ベルギーのモンスの東にある、サントル運河です。

    運河が水を湛えたまま70mも持ち上がる姿は、
    人間は、本当にこんなことまで考えたんだ!という、その凄さに感動します。

    もし、すでに行かれてたら、余計な事でゴメンナサイ。


  • 17/08/23 08:41

    12)パリ・モンパルナス通りのクレープ屋、Josselin(ジョスラン)その1

    ブルターニュ地方からサントル地方のBriareまで移動する計画にしたので、列車乗り換えのためパリMontparnasse駅からBercy駅まで市内を移動するが、昼時になるので、モンパルナス通り(rue du Montparnasse)のクレープ屋で軽く昼食にしようと思った。

    Montparnasse通りと、ここにつながる通りには20軒ぐらい(ひょっとしたらもっと多いか)のクレープ屋が集まっていて、以前にはMontparnasse通りに入って真ん中ぐらいの店で食べたが、店の名前などは覚えていないので、ひょっとしたら日本のブログなどに、お勧めでもないかと思いながら、ネットを見ると、クレープ屋ジョスラン(Creperie de Josselin)というのが何件かあるお勧めのなかで推奨するブログが多かった。

    Montparnasseに行って簡単にJosselinが見つかれば入るし、見つからなかったら、荷物もあるし、時間もないので、適当にどこかのクレープ屋に入って食べるつもりで列車に乗り、Montparnasseに着いた。

    Montparnasse駅からMontparnasse通りに入るとすぐの右手にそのクレープ屋(Creperie de Josselin)が見つかった。
    この通りは狭い通りなので歩道も巾狭く、店の前のテラスで食べさせる席は設けていない店がほとんどである。(ブルターニュの様に外で食べると気持ちいいんだが)

    木のドアを開けて中を覗くと、おばさんがドアのすぐ内側にいたらしく、中へ導き入れて、荷物はドアの傍に置いておく様に言い、席に案内された。入り口付近に荷物を置いている客も数人いた。12時前なので、店の入りは80%ぐらいである。

    おばさんは席の案内係専任で、すぐにテーブル係のお兄さんが、茶色い模様の陶器のピッチャーに水を1リットルぐらい入ったものを持ってきて置き、メニューを見せる。
    そば粉と小麦粉に分かれているが、そば粉の方は「couple de sarrasin」と頭にcoupleがついている。そば粉は「sarrasin」というのだが、ブルターニュ地方では「ble noir」の方を使い、「sarrasin」の文字はそのあとに括弧書きで控えめに書く店が少しある程度で、sarrasinの文字を使う店は少なかった。
    給仕人のお兄さんに、sarrasinはble noirとも言うんでしょ、というと、「はい、そうです」との返事、地方によりメインに使う語が異なる様だ。

    それで、「coupleって何のこと?(coupleは日本語で言うカップルに近い語感)」と尋ねると、両手を重ねて、「2枚です」という。
    クレープがダブルというのはちょっとイメージできない、普通は折り曲げるからダブルの様になるが、メニュー全部がcoupleなのでどんな形なのか、そこは見てのお楽しみ、注文に進む。具には「チーズとタマネギ」を選んで注文する。(おいしいかどうかが具に頼っているならそれだけのこと、平凡な具でおいしいかどうかが店の腕の見せどころだろうと、ごく平凡なくせのないものを選んだ。)

    まもなくクレープが来た。

    クレープは丸いものを4つ折りにした形(丸いものを半分の半月形に折り、さらにまた半分のイチョウの形に折ったもの)である。
    真ん中の先端部分が妙に分厚く、ぷっくりと盛り上がっている。
    先端部分にナイフを入れてそこをまず食べてみる。
    う~ん、バターの味か何かが強過ぎて、口の中で溶ける様な食感はあるが、そば粉の風味が全く感じられない。そう言えば、生地がやや黄色みで、そば粉の割合が多ければ薄茶色になるはずなんだけれど、、、と思いながら、具の入っていない縁の方を食べると、確かにそば粉の風味がする。そば粉は使っているのは間違いないね。(ブルターニュでは地域によりそば粉の比率が違う)
    脂肪分が多すぎの感があるが、味は通常のクレープにはない味だった。
    ダブルだからぶ厚いのだろうと思いながら、クレープが何枚重ねなのか見たが、ナイフで切られたので、重ねた枚数が数えにくい。

    食べ終わると、お兄さんが来て、デザートとかコーヒーを注文するか尋ねられたが、この店はゆっくりしたい気持ちが出なかったので、断った。
    この店の客は、食べながらかなり大きい声でぺちゃくちゃしゃべっている人がいるし、また、皿とナイフがカチャンと触れる音がしょっちゅうきこえ(皿とナイフのあたる音なんてどうやって食べたら出るんだ?)、フランスでこんな騒がしい、全体的にざわざわと雑音のある店で食事したのは初めてである。
    日本人もかなりいたし、日本人以外の極東の人もいたし、現地の人らしい人がお孫さんを連れてきているらしい人もいた。みんなうれしそうだったし(堅苦しくなくて大声で話してもひんしゅくを買うとは思えない雰囲気)、それで店が繁盛しているから、こういう店もあっていいだろう。
    (続く)

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  • 17/08/23 08:34

    11)ストラスブールのヴォーバンダム(Barrage Vauban)

    ストラスブールのプチットフランス地区に行くと、散歩中にイル川が多数に分岐する直前の位置にあるこの屋根付きの橋を渡ることがあり、屋根付きの橋は、昔はフランスでは橋の上の両側に常設の店舗があったことなどからその遺構が残っているのか、という程度にしか考えていなかったし、橋の下に堰が入っているのは周辺の畑の灌漑用に設けた用水路に水を導き入れるために水面を上げているのだろう、という程度にしか考えていなかった。
    その橋がBarrage Vauban(日本語に訳すと、ヴォーバンダム)という名前であるというのは何回かストラスブールに行くうちに知った。

    Vaubanと名前が付くから農業用ではなさそうで、資料などを調べると、
    ストラスブールを防衛するために、Vaubanが1681年に設計図を描き、1688年に完成したダムで、有事の際には、このダムに堰板を入れてイル川の水を氾濫させ、ダムの上流側(ダムから南側)一帯を水没させて、南から来る敵の進軍を難渋させるという想定で造られたものであるそうだ。(当時は、南側一帯は牧場と畑だったそうだ。)

    ダムの完成から180年ほど経った1870年にドイツ(プロイセン)との間に普仏戦争が起こった。このとき、ストラスブールの守備兵は、Vaubanの教え通りこのダムに堰板を入れ戦闘に備えたところ、Vaubanの想定した通り、水があふれ川上一帯が洪水となったそうである。
    ストラスブールの戦闘は、大軍を差し向けたドイツ側が町を攻め立て、フランス側の劣勢でフランス兵はストラスブールから退却したので、町をドイツ軍が占領し、ドイツ軍の指図で堰板を上げさせた後には水が引いて洪水は治まったそうである。

    今回ストラスブールへ行ったので、このダム(橋)をつぶさに見てみた。
    まず、入り口には「Barrage Vauban、建設年xxxx」などの文字の入った立派な銘板が下げられている。
    各橋脚の内側の石には巾10cmぐらいの溝が縦に切り込まれ、堰板を入れられる様になっている。すでに、何段か堰板が入っているので、落ち口の方から見ると、1mぐらい水面は自然状態よりは高くなっている。
    内部の通路の両側の空間には寺院などから取り外した古い彫像などが保管され、倉庫兼通行者への無料展示場所として使われているが、建造時には兵隊の駐屯場所や弾薬の置き場として用意したものだろう。
    所々に錆びたギアや滑車、チェーンの様なものが見られるが、これは堰板を上げ下げするためのものだろう。今でも使えるかどうかはわからない。
    橋脚は12本でダムが構成されている。(スパンは13ということになる)

    内部通路から見ると、川下側(市内を見る方)は大きく窓が開いているが、川上側(敵に相対する方)には窓はなく、銃眼としてのスリットが各スパンに3カ所ずつ設けられている。(この形の銃眼は合計42個ということになる)
    スリットは、射撃口(壁の最外面)で横幅10cm、縦40cmほどである。壁の厚さは1.2mほどあるから、銃眼は手前に来るほど大きくラッパの様に広くなっていて、手前では横幅40cmぐらいである。
    (縦の高さは40cmぐらいで変わらない)

    銃眼の向きは、壁面とは直角に川上の方を向いているが、両岸からみて二つ目のスパンまでは、直角ではなくて少しずつ内側を向く様に造ってある。外壁面はカーブしてなく直線状だから、最も川岸に近いスパンでは、直角だと川岸の河川敷や土手上の敵を狙う様になるが、それを川の中の方に向けてあるのは、敵は船でやってくる、洪水状の場所は船を操船出来ないから敵は川筋の中をやってくるだろうから直角では狙撃しづらい、それで端の方は少しずつ角度を内向きに変えて、射撃手全員が川の中を撃てるにしたものだろう。

    Vaubanの想定は以下の様なものだったか。
    すなわち、洪水になると大軍が大砲を引いて移動するのが困難である。その原因はダムの堰板にあり、それを小型舟艇に積んだ大砲で撃ち破ろうとして向かってくるだろう、従って、このダムには敵を狙撃する銃眼構造が必要だ、と。

    壁が厚く奥行き1.2mぐらいでかなり深く感じたが、銃が短いと撃ちづらいけれど、17世紀頃の火薬は性能が劣り、そのため当時はかなり長い銃身のものを使っていた模様で、建設時にはこの奥行きでよかったのだろうと推定する。

    なんと言っても、Vaubanの造ったものが180年後でも想定した通りの洪水を起こしたということがすばらしい。また、フランスの人々が、Vaubanを信じてこのダムに堰板が入る仕組みを200年近くも錆び付かせず維持してきていた、というのも。

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  • 17/08/23 08:26

    10)Briareのエマーユのミュージアム

    Briareは小さな町で、9)でレポートした運河橋のあるところだが、町にエマーユのミュージアムの看板があったので、どんなエマーユを展示しているのだろうか、と思った。

    エマーユは仏語でémailと書き、一般的には日本語で言う琺瑯(ほうろう、ホーロー)、七宝などに相当し、金属に釉薬を塗って焼き付けたものを言うが、仏語でいうémailはそれらも含めて、セラミックで作ったものも言うようだった。
    ホテルの人に、émail(看板は複数形でémaux)のミュージアムがあるようだが、どんなものが展示されているか、金属に塗ったホーローの様なものか尋ねると、金属の裏打ちのないセラミックだという。
    時間があったので、入ってみた。

    説明書によると、ここは、160年ぐらい前に、パリ近郊から引っ越してきて、当時は主に陶器製のボタンを作っていたそうである。従業員500人程度で事業はかなり成功していたそうだ。陶器製のボタン? と思うが、そう言えば、子供の頃、祖母の裁縫箱のボタン入れに、着なくなった洋服から外した陶器製のボタンがちらほら混じっていたような気がする。貝類かツノで作ったものが主流だった頃、陶器のボタンが混じっていたことに、珍しい感じを持ったことを思い出した。

    その後、セラミックに真珠様の光沢を持たせる技術を開発し、装身具用の真珠様の玉なども作ったりしていたが、戦後しばらくして主商品のボタンがプラスチックに取って代わられたので、事業を縮小して、モザイク用のメノウや大理石の様な光沢を持つセラミックを作っているそうである。このモザイク用の立方体をエマーユ、複数形でémaux(発音はエモー)といっているようだ。

    工場には一般の見学コースはないが、ミュージアム内の展示やビデオで製造工程がわかるようになっている。
    原料は、微粉にしたガラスの粉、粘土(純白だから長石みたいなものを微粉にしたものの様だ、説明表示は粘土としか書いてない)、方解石の粉の三種類を混ぜて主成分とする。
    方解石は透明な石で、子供の頃学校の鉱石標本で見たが、複屈折をする鉱石として有名で、下に印刷物を置いて上から見ると文字が二重に見えることで知られている。この鉱石を微粉にして混ぜる。(色は白、特殊な屈折をする方解石を混ぜるのがミソか?)
    そのほか、着色のための鉱物粉末を混ぜる。
    粉を混合して、プレスして固め、炉で加熱し焼結状態に固めて、取り出して製品にする。
    製品は渋めのいろいろな色で、メノウの様なやや半透明の光沢がある。

    ミュージアム内の壁には、モザイクで作った宗教画や現代の絵柄の作品が多数展示されている。

    会社では、ここの製品を使えば、天然石を立方体に割る手間がいらず、その上比較的安価にモザイク材料を提供できる、と唱っている。全世界のモザイク作家に使ってもらっているそうだ。
    製品には、タイルの様な形の薄いものもある。(タイルとして使うものだろう。)

    160年ほど前にこの地に工場を移転したのは、説明書には特に書いてないが、この土地で陶土や方解石が産するとは書いてないから、ここは複雑に運河がつながる地点で、重量のある原料の鉱石や製品の水上輸送に、当時としては便利だったのではないかと思われる。

    この町にはやや立派な教会があり、ファサード全面にモザイク装飾が施されていた。中に入ると、床全面や、壁や柱にもモザイク装飾が施されていて、フランスの教会でモザイクの全面装飾とは珍しいと思いながら、エマーユのミュージアムを見て、ここの工場から提供されたものを使ったものに違いないと思った。
    あいにく、この日は観光案内所が休みの日で、そのあたりを詳しく尋ねることは出来なかった。ミュージアムの受付のお姉さんは高校生ぐらいのアルバイト程度の年齢で、工場の歴史など知るよしもないだろうから、尋ねるのはやめにした。

    Briareのエモーミュージアムのサイト↓
    http://www.emauxdebriare.com/museefr.php

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  • 17/08/23 08:20

    9)エッフェルの作ったロワール川の上を渡る鉄の運河橋

    Centre-Val de Loire地方のLoiret県にある町Briareに、エッフェル(Eiffel)の作った運河橋(Pont-canal de Briare)が、ロワール川を渡っていく所があるので見に行った。
    エッフェルはパリのエッフェル塔を作ったエッフェルである。

    行き方は、パリのBercy駅からNevers行きの国鉄interciteで1時間40分ほど乗ればBriare駅に着く。着いた日は駅近くのホテルに泊まった。

    このあたりはロワール川(ロワールのお城のある地域を流れ大西洋に注ぐ川)とセーヌ川(パリのあたりを流れ英仏海峡に注ぐ)の上流で、フランスでは昔は水運が物資輸送の重要な役割を担っていたため、大きな河川は運河で結ばれていた。エッフェルの作った運河橋は、ロワール川とセーヌ川を結ぶ運河の一部で、地形的に高低差が合わないためにロワール川を横切り、上流に行ってから、ロワール川に合流するようになっている。
    また、この運河はだいぶ南東の方まで行くと地中海に注ぐローヌ川ともつながっていて、運河網の一部をなしている。

    駅から徒歩30分程度でこの運河に出る。
    完成したのは1896年だそうだ。
    上部は真ん中が水路、両端が巾2.5mぐらいの歩道になっていて、水路部分がアスファルトなら普通の道路橋のような感じである。
    建設された頃は、アールヌーボーが始まった時代であり、照明装置や手すりなど、当時の建築物の装飾の様式を取り入れてバランスよく美しさを演出している。

    橋の下の河川敷に降りてみる。
    橋を下から見ると、縦50cm×横1mくらいの鉄板をリベットでつないで凹型の樋を構成し、内部に水を入れて運河とする構造となっている。長い鉄板を作ることが出来なかったのか、大きい構造物にしては細切れの鉄板を使っているようだ。
    エッフェルの作品はL型アングルを複雑に多用して、リベットで貼り合わせたトラス構造物が多いが、ここの運河橋はL型アングルの使用は最低限に抑え、強度も鉄板で持たせた形である。

    橋脚のスパンは40~50mぐらいある。(橋の全長660m、橋脚は14本ということだ)
    鉄板を凹型に組んだだけでは、このスパンの長さでは重量がかかると凹型の両側の縦の板が内側か外側に曲がって桁がたわむ恐れがあるが、それを防いでいるのは、歩道部分の水平板も役に立っているようだ。
    最初見たときは、歩道部分の水平板は凹型の板にもたれているのかと思ったが、この板と縦の板を「ほおづえ」(方杖。例えば、家庭で壁に棚をつける際、鉄の三角形の取り付け金具を使うが、あれに似た形のもの。)で、1m間隔に多数取り付けてあって、これが縦板と歩道板を強固に結びつけ全長に渡って三角柱のような形で強度を持たせているようである。

    強度のためには歩道板が必要だったようだ。
    この方杖の形も、何となくアールヌーボーの形を彷彿とさせる形で、全長に渡って付いていて、下から見ても気持ちがいい。

    エッフェルさん、美しさを失わないで強度を持たせる構造を考えたんだね。

    ちなみに、この運河橋は、第二次大戦が始まってまもなく、ドイツ軍の南の方への進軍を遅らせるために、フランス軍により、スパンの2番目と3番目の桁が爆破されて、橋がロワール川に落ちた。落ちた写真を見ると、10mぐらい落ちて河床に激突したのに(水があったということはあるにしても)、ぺしゃんこになったり折れ曲がったりしていないのは、やはり、歩道部分で構成される三角柱の構造が強度を有しているということだろう。
    この運河橋は、戦後修復されて現在に至っている。
    爆破されたときの写真を引用したサイト↓(写真の前半は現在の様子、後半は戦時中を含む昔の様子)
    http://www.binnenvaartinbeeld.com/fr/canal_laterale_a_la_loire/pont_canal_de_briare

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  • 17/08/23 08:11

    8)潮汐発電所見学

    ブルターニュ地方のサン・マロ St Malo と、西隣のla Richardais という町との間にランス川(la Rance)という川が流れていて、河口部分に潮汐発電所(仏語では L'usine marémotrice という)が設けられている。

    St Malo 駅から潮汐発電所まで約7km、すぐ近くを通るバスはなく、バスにした場合は降りてから4kmほど徒歩になるのでバスはやめて、駅前の客待ちタクシーに、潮汐発電所まで行きたいというと、OKしてくれた。
    帰りは、時間を決めて迎えに来るのか、再度呼ぶのか尋ねると、どれくらいそこにいるのかと聞くので、1時間半ぐらいだというと、タクシーの電話番号名刺を渡すので、帰るときに電話して欲しいという。

    駅前からタクシーは10分程度で着いた。料金は15eurosで、だいたい想定される金額である。

    川をせき止めて、せき止めた堤防内にスクリューを多数並べ潮汐を利用して電気を発電する。スクリューは水の中なので、川岸や堤防上からは見ることは出来ない。堤防は橋としても機能していて、上部はSt Malo とla Richardaisをつなぐ橋の役目をしている。橋としての長さは600mぐらいである。
    堤防の西の端(la Richardais町側)にミュージアムがある。見学は無料だった。
    小学生ぐらいの遠足の一団が見学に来ていた。

    内部には発電機構造の実物大模型が展示されている。
    スクリューは直径3mぐらいで、中心にある芯部分は直径1mほどあり、その中に発電機が設置されている。
    堤防内部の全体構造は、模型や映像で見学する。
    堤防内部の水が通る部分は、スクリュー(発電機のある部分)に向かってノズルのように絞られ、水流を加速するようになっている。水の流れは、満ちてくるときと引くときは反対方向なので、スクリューのプロペラの向きが芯に対して角度を変えて、最も効率がよいように角度を変化させる構造になっている。
    このような発電機単位が川幅いっぱいに24個並べて設置されている。

    ミュージアムの廊下の一部から、発電所として使われている堤防(橋)の内部の空間が少し見える。その場所はスクリューや発電機を修理するとき、水中から引き上げて修理する場所のようだ。各発電機単位の上にあり、全部つながって幅広の廊下のような感じだった。修理機械らしいものが少し見える程度で、全容は見えない。

    川に堰のようなものを設置すると、生物相が変化し、環境によくないと言うことがあり、電力会社ではこの川の環境の維持に勤めている様子などの展示もあった。環境団体の活動などへの対応だろう。

    見学が終わったのでタクシー会社に電話して迎えに来てくれるように頼んだ。10分ぐらいかかって来ると言うので、駐車場で待つことを伝えて待つ。帰りの料金は21eurosだった。駅前でタクシーを拾って来たときより6euros高くなった。差の6eurosは迎車の時メーターを入れてくるので、迎車料金と言うことになる。(フランスではそのような習慣なので致し方ない。)

    戻ってから、ここの発電所の出力を調べると、定格出力240MWとなっていた。この大きさは、例えば日本の原子力発電所一基と比べてどの程度だろうか。日本の原子力発電所の平均的な発電能力は、1基110万kWとなっている。単位が違うので換算すると、1,100MWにあたる。そうすると、フランスの潮汐発電所は日本の平均的な原子力発電所の約5分の一程度の出力ということになる。(正確には21.8%)
    土木工事の規模は大きいが、一カ所でこの程度出れば、なかなかがんばっているといえるようだ。

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    17/08/30 18:48

    ここは有名ですね

    私も地理教諭の義理兄にせがまれて車で行った事があります。
    カンカルの牡蠣やモンサンミッシェルもそうですが潮の満ち引き差は半端ないですね。
    フランスと言うと原発のイメージが強いですが他の方法も色々試した上での選択と言う事で説得力はありそうです。周りのフランス人に聞いても「仕方ない」と言いますし、原発見学会に参加した事もありますが同様の印象を受けました(怖いのは事故ではなくテロリストによる原発攻撃)。
    その横にある跳ね上げ式の橋が船が通るタイミングでしばらく通行止めになり参りました。

  • 17/08/23 08:09

    7)ヴォーバンの要塞Saint-Vaast-la-Hougue(シェルブール近郊)その2

    Saint-Vaast-la-Hougueの北の方にBalfleurという村があり、「フランスの美しい村」のリストに掲載されている村で、行ってもいいと思っていた村だ。要塞内部が見学できないなら行ってみるかと、バスの時間を見たが、2時間ほどバスを待って乗って行くと、現地滞在10分ぐらいで帰りのバスで帰らないと、バスがなくなる時間になる。バスの時間帯が合わない。

    観光案内所の人に、Balfleurまでのタクシーがあるか、料金はいくらぐらいか尋ねると、タクシー会社に電話して問い合わせしてくれた。
    今はタクシーが出払っていて、45分ぐらい待てば準備できる、料金は30eurosぐらいだ、ということだ。
    (待ち時間45分というのも要注意だ。フランスではフランス時間が流れている。45分といったら、1時間ぐらい待つことも往々にしてあると覚悟しなければならない。)
    この条件では、Balfleurは「フランスの美しい村」ではあるが、30euros出して行くほどのものでもないと思ってタクシーは断った。

    時間が余ったので、海岸を歩いて浜のあるところに出る。ちょうど干潮で、遠浅の海岸にパイプで作った高さ60cmほどの棚が海岸沿いに1kmほどの範囲に、要塞のある島の方に向かって一面に見えている。何かの養殖をしているようだ。通りかかった犬を連れた散歩のおじさんに、これは何の養殖かと尋ねると、ここは全部牡蛎の養殖だ、という。ムール貝あたりかと思ったけれど、そうじゃないようだ。この棚の上に座布団ぐらいのサイズのプラスチックかごを置き、その中で牡蛎を養殖する。
    水が引いた頃合いを見計らって、荷台付きのトラクターで乗り入れ、かごを収穫して、かごのまま近くの処理場に持って行くようだ。また、戻ってきた便で空のかごを運んできて、棚にセットしている。

    日本の養殖方法とは全く異なる。
    日本では、西日本だと、ある程度の深さのある湾内で筏に長いロープをつるしてそのロープに牡蛎を成長させる。ロープを引き上げて牡蛎を収穫する。仙台湾あたりだと、長い丸太を組んだものを海底にセットして沈め、ロープにぶら下げて養殖するようだ。どちらも比較的水深のあるところで養殖しているが、フランスではかなり浅いところで養殖する。フランス方式は潮が引くと牡蛎は空中に出る。通常は1日2回それが起こる。この方法により味や食感に差があるのだろうか。

    砂浜の中の通路は車両の通行により固くなっているようで、向かいの島まで陸から小型トラックが商品を配達に行くようだ。水が引くと島まで歩いて渡れると書いてあったが、車が行けるようになる。
    長靴を履いた土地の人が、海中に干上がって通路になったところを歩いて島に行くようだ。
    所々、海水が残っている水たまりがあるので、私は、靴が海水にぬれるのがいやだったので、浜には降りなかった。それに、島に渡ったあといつの間にか水が満ちてきて戻るのに難儀するようになっても困る。

    パンフレットには、観光客を島に渡すのは水陸両用車だと書いてあったが、なぜ船でなく水陸両用車を使うのか、そのわけがわかったような気がする。おそらく、島の周りも遠浅で、深さのある船着き場が作れない。このあたりは干満差が大きく、船で客を渡して潮が引くと、迎えの船が島に着岸できないのではないか。そのような場所では、毎日潮の満ちている時間はずれていくから、決まった時間に客を連れ戻すには不都合が起こる。従って、水陸両用車の登場となるのだろう。

    港に面した店には、殻付きの牡蛎を売る店があり、車で来た客で繁盛していた。

    今日は、要塞内部の見学がかなわなかったけれど、城壁の稜や、Vaubanの塔を間近に見たので、良しとしよう。

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  • 17/08/23 08:06

    6)ヴォーバンの要塞Saint-Vaast-la-Hougue(シェルブール近郊)その1

    ルイ14世時代の要塞建築家(要塞建築の天才と言われている)ヴォーバン(Vauban)の建築した要塞がシェルブール近郊のSaint-Vaast-la-Hougueにあるので見に行った。

    Saint-Vaast-la-Hougueは、現在は漁港で、港の一角にはレジャー用のボートも多数係留されている。

    この地は、西暦1600年代の終わり頃、ルイ14世の時代に、当時対立していた英国やオランダとの間に断続的に起こった海戦の中で、ここの港に停泊していたフランスの艦船を英国とオランダの艦隊が急襲して12隻に火を放って燃やし、逃走する事件が起こり、ルイ14世はここに敵艦船に対する要塞や砲台が必要とみて、要塞建築の専門家、Vaubanに建築を命じたそうである。

    完成は1700年代の初め、その後、約100年にわたって英国との争いの間、ナポレオン戦争が終わるまで、何度も英国の艦船の攻撃を受け、塔の上から大砲を放ってこの地を防衛したそうである。(英国は、シェルブールからこのあたりまでのノルマンディーの半島の先端を奪おうと考えたようである。)
    要塞は、港の先にある岬に一カ所、港の沖1kmほどの所に浮かんでいる小さい島(Tatihou島)に一カ所、高くそびえていて、両者の形はほぼ同じ、バケツを伏せたような太い塔に細い監視塔がくっついたような形で、遠くからでもその姿を見ることが出来る。

    ネットで見学情報を調べたが、岬にある方は見学情報が得られず、見学出来るのかどうかわからなかった。シェルブールの観光案内所で尋ねたが、島(Tatihou島)の方は水陸両用車で見学者を運ぶパンフレットをもらったが、岬の方は情報がなかった。
    現地へ行ってみてどうするか決めることにして出かけた。
    岬の方が見学できなければ、島に渡る方法をとることにしよう。

    行き方は、CherbourgからValognesまで列車で15分、ValognesからBalfleur行きのバスでSaint-Vaast-la-Hougueまで30分程度である。

    Saint-Vaast-la-Hougueに着いて、見学の可能性などを尋ねるつもりで、観光案内所に行ったが、昼前後の休憩時間になって閉まっていた。
    開くまで2時間程度あるので、まず、岬の要塞に行ってみることにして、その方に歩いて行く。約2km、30分ぐらいで、要塞の城壁の近くに着く。城壁の周りをぐるっと見学するつもり。とった道は、城壁の後側に導く遊歩道になった。裏の方に行く道ではあるが、どうせ一周するつもりだからどちらから行ってもいい。

    裏の方は、断崖の岩の上に城壁が築かれていて、Vauban独特の矢印の先みたいな防塁(防御のための稜)は造られていない。断崖の下から攻撃するのは不可能とみて、何も作らなかったようだ。塔が裏側の城壁の近くにあって大きくそびえている。屋上の直径は20mぐらいあろうか。
    半分ぐらい回ると浜になり、城壁を何重かに巡らしたVaubanらしい稜が見られた。敷地は塔を囲んでかなり広くとっているようで、浜の方からは塔はかなり奥に見える。城壁伝いに周りを回っている だけで30分以上かかった。

    ようやく正門の方に来たので、近づいてみると、門が閉まっていてパネルがあり、
    「この施設は一般の方には公開していません。フランス陸軍。」
    と書かれていた。うーん、そうだったか。陸軍さんには勝てない。
    やむを得ない、観光案内所に戻って、島に渡る方法を尋ねよう。また、30分歩いて町の中心に戻ってきた。

    観光案内所が開くのを待って、尋ねる。
    岬の要塞はフランス陸軍が使っていて見学できなかった、というと、その通りです、という。
    シェルブールでもらったパンフレットと同じものを出してきて説明しながら、
    「見学できるのはTatihou島の要塞だけで、ここの観光案内所から50mほど左に行ったところに島に渡す会社があるから、行けるんですけど、今日は普通なら見学できる曜日ですが、要塞の工事のため、今日だけ見学できません。従って島に渡す水陸両用車も運行していません。」
    といわれた。
    参りましたね。
    (続く)

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  • 17/08/23 08:02

    5)シェルブールの退役した原子力潜水艦の見学

    英国のポーツマス港からフェリーでフランスのシェルブールに着いた。
    観光案内所で、町の観光スポットは何があるのかを尋ねると、今年(2017年)春から、旧港の展示場に原子力潜水艦が建造から50年以上経って退役したものを展示始めたということだった。

    観光案内所のお姉さんは、シェルブールには傘の工場があり、その会社がやっている傘のミュージアムもある、といった。そう言えば、ずっとずっと昔の映画で、シェルブールの雨傘の映画があった、なんて話になったが、出てきた女優さんの名前を思い出さないので、あれは誰だったのかな、なんて言うと、「カトリ-ヌ・ドヌーブ」と即座に出てきた。
    お姉さんは25歳前後のようだけど、生まれたときよりずっと昔の映画なのに、女優の名前がすぐ出てくるのは案内所の人としてなかなかよく勉強しているようだ。(この映画はビデオかテレビで見たと思うけど、出だしの所はよく覚えているけれど、筋や結末はうろ覚え程度である。)
    傘のミュージアムの建物にはきれいな傘がいくつも広げて掛けられていたが、興味が沸かなかったので入らなかった。

    さて、原子力潜水艦。
    乾ドックのような所に定置され、艦の長さは約128mだそうである。
    後部の入り口から入り、順に前の方に移動しながら見学する。
    最初の区画(艦では最後部)はスクリューを回すシャフトと減速機、モーター、などの駆動部分、
    次いで、海水から、水を電気分解して酸素と水素ガスを取り出す装置(電気を起こすのは原子炉から得られるスチームでタービンを回し、発電する。酸素は艦内への供給用、水素ガスは不要物として海中に捨てる)
    海水を純水にする装置(原子炉やボイラーには純水が必要。乗組員も飲料にする。)
    艦内に乗り組む兵士の呼吸で吐き出された二酸化炭素を艦内空気から除去する装置。(分離した不要の二酸化炭素は海中に捨てる。)
    原子炉から取り出されたスチームでタービンを回し、発電機を回す区画。
    ここまででおそらく全長の3分の1程度だろう。
    これらの一連の装置で、原子炉が動く限り、原子力潜水艦は浮上の必要がない。乗組員の食料が持つ限り、酸素は艦内で作る から、何ヶ月でも潜っていられる。

    その先が原子炉のエリア。原子炉は危ないから、展示の前に完全に撤去され、その部分の潜水艦本体の胴体も6~7mぶん、そっくり切り取られて別のダミーの円筒がはめ込まれている。
    原子炉を取り出したときの工事の映像が見られるようになっている。原子炉のあったところは、ひょっとしたら加圧水が漏れたかも知れないし、危ないので、万一の過去の放射能汚染を考えて完全にそっくり入れ替えたものだろうと思う。
    説明のビデオから、原子炉本体は一辺が1.2mの立方体の中に納められていたようだ。

    その先は、潜水艦発射の核弾頭ミサイルの格納場所。縦に16本納められている。潜水艦の上下の高さいっぱいに使っているようで、それほど長いものではない。
    従って、射程距離もそれほど長いものではないだろう。
    核弾頭を装備して敵国近くの海に潜み、本国から指令があったら、核弾頭を発射する。海中の比較的近い所から飛んで行くから、撃ち落とすことは難しい、という考えによる。

    その先は、通信機械や各種機械類スペース、乗組員の居住スペースなど。
    先端部分には、魚雷発射室。発射管が4本(上下に2本ずつ組み合わされた4連装)、および予備魚雷の置き場など。
    搭載されている魚雷の長さはかなり短く、全長2.5mぐらいかという程度である。電池でスクリューを回すから、それほど長い必要はないのかも知れない。また、妙にしっぽの方にかけて細くなっていて、横から見たシルエットは魚そのものみたいだった。この方が、水中を高速で進めるための構造かも知れない。
    旧日本海軍の魚雷は、だいたいしっぽまで同じ太さで、長く、円筒状だったと思う。(実物の大きさの模型が、広島県呉市の大和ミュージアムに展示されている。旧日本海軍の魚雷は速度では速く設定すれば時速90kmで水中を進むもの、射程距離の長いものでは40kmに及ぶものがあったそうだが、この原潜は射程距離についてはそこまでのものを装備していないかも知れない。)
    この原潜は敵艦を魚雷で攻撃するのを主任務にしていないから、魚雷を使うのは、行動中に、偶然、敵潜水艦に遭遇してしまったときにやむを得ず使うためなのかも知れない。(深さ300mまで潜行できるから、じっとしている限り海上艦船に見つかる可能性は低そうだ。)

    北の将軍様も、潜水艦から発射するミサイルを装備したディーゼル駆動の潜水艦を開発したようだが、小型の核弾頭を開発して載せたりしたら危険きわまりない。(ディーゼルの潜水艦は浮上する必要があるから、原子力潜水艦より隠密性は劣るだろうけれど。)

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  • 17/08/23 07:56

    4)ポーツマス港の戦列艦ヴィクトリー号

    今から200年ほど前、フランスのナポレオンの艦隊と戦って勝利した英国艦隊の旗艦であったヴィクトリー号が、ポーツマス港の乾ドックに展示されている。
    この時代の大砲を備えた艦船を「戦列艦」と言ったそうで、近代の戦艦に相当する。
    中はどうなっているのかという興味もあり、見に行った。

    ドックに定置された艦は木造三本マストの帆船で、200年も経ているから何度も修復されたが、元の形だそうである。
    大砲は104門装備され、船の舷側(船の横腹)に四角に開けられた窓に一門ずつ外を向いている。大砲を設置する階の内部は三階建てである。外から見ると、船の横腹に3段に数多くの窓があるような格好に見える。窓には木の蓋がちょうつがいでつけられ、戦闘しないときはその窓を下ろして海からしぶきが入るのを防ぎ、戦闘状態になったら、その蓋を上に開けて大砲を覗かせる。
    最上部甲板にも数門ずつの大砲が設置されている。従って、大砲のある階は全部で4階(3階建てと屋上)ということになる。

    内部は、砲筒が木製の台車に乗せられ、木製の車輪(厚板を円形に切り出したもの)が4輪ついている。
    砲弾を撃ち出すと、砲筒に反作用があり、筒が後退出来るように車輪がつけられている。船板その他は木造なので、筒を固定すると、繰り返す射出の衝撃で固定した部分の木材が破壊されるので、陸上の大砲と同じように、台車上に設置する方式のようである。
    ただし、船が傾いたときに、または弾みであまり後退しすぎないように、太さ5cmぐらいのロープで長さに余裕を持って舷に設置したフックにつながれている。

    大砲は舷に直角の向きに置かれているので、戦闘するには、射程距離内まで敵に近づいたら艦を直角に向きを変えて横腹を敵に向け、大砲を一斉に放つ、という戦法をとる。
    (近代の戦艦のように、艦と平行の向きに発射することは出来ない。)

    この時代、艦船から放つ砲弾は内部に火薬の入っていない球形で、文字通り「砲丸投げ」の砲丸の形である。砲丸が敵の船に命中して、木造の舷を破り浸水させる、マストを破損させる、などの損害を与えることを狙う。

    内部の木材は無塗装で、修復されて材を入れ替えているから、200年も経った木の感じはない。せいぜい20~50年程度の感じである。ただ、船底の食糧倉庫になっている船倉のあたりの木だけは、200年と言えばそうかも知れないという古さの状態だった。

    ナポレオン戦争の時に、フランス・スペインの連合艦隊と英国艦隊の戦闘がトラファルガー沖で起き、そのときネルソン提督の乗ったこのヴィクトリー号が旗艦を勤めて戦闘に勝利した。
    ナポレオンは、うまく制海権を握ったら、何十万という大軍を英国に上陸させ、得意の陸軍戦法で屈服させるつもりだったようだが(ナポレオンの陸軍はめっぽう強かった)、ネルソン提督は巧みな指揮で海戦に勝利し、この野望をくじいた。

    ロンドンのナショナルギャラリーの前の広場は、このときの海戦の勝利を記念して「トラファルガー広場」と命名されたそうである。また、指揮を執ったネルソン提督はこの戦闘でフランスの艦船から放たれた銃弾に倒れ戦死した。

    どこの国でも、勝利した艦隊の旗艦を展示し、後世に残したい気持ちはあると思う。日本にも、日露戦争時にロシアのバルチック艦隊を破った日本の艦隊の旗艦「三笠」が横須賀市の三笠公園に展示されている。

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  • 17/08/23 07:53

    3)シャガールのステンドグラスを見に行く(英国Chichester )

    Chichesterという町のカテドラル(大聖堂)にシャガールのステンドグラスがあるという情報を得ていた。
    ChichesterへはLondonから列車で1時間半程度で行けるが、航空券を買ったあとの3月22日にロンドンでテロがあり、ウエストミンスター橋の上の通行人を撥ね殺し、ウエストミンスター宮殿の警備警官をナイフで刺殺するという事態が起こったので、ロンドンに長居は無用、行程上のPortsmouthに早めに行き、Portsmouthからの往復にした。Portsmouthあたりの田舎町ならテロに遭遇する確率は低いだろうと期待した。Portsmouthからは列車で30分程度の距離である。
    (英国のテロは、2017年3月22日のロンドン・ウエストミンスター橋に続いて、この旅行の帰国後だが、5月22日にマンチェスターのコンサート会場の爆発、6月3日にロンドンブリッジで通行人を撥ねて、マーケットの客を殺す、というテロが発生している。)

    駅からカテドラルまで徒歩12~13分ぐらいだった。
    カテドラルと言うぐらいだから、建物本体は他所の教会に引けをとらない程度に大きく、窓にはクラシックな宗教画のステンドグラスが入っている。シャガールのものは祭壇近くの大きい窓に1枚だけ入っている。全体の色調は明るい赤である。
    彼らしい絵柄である。

    写真のサイト↓(これらのうち、赤を基調としたものが該当、1枚のみ)
    https://www.google.co.uk/search?q=chichester+chagall+stained+glass&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwiu2M7u6rLVAhXBFpQKHVvuBusQsAQITQ&biw=1188&bih=583

    シャガールのもので赤を基調としたステンドグラスは数が少ないと思う。由来を調べていないので、作者がなぜここのカテドラルに赤を選んだかは未調査である。
    彼のリトグラフ作品になると、全体が赤を基調としたものはちらほらある。

    ここのカテドラルは、カテドラル本体の建物以外に、広い敷地内に僧坊のような建物の棟が長く続き、修道院もくっついて建てられているようだった。

    この日は日曜で、Chichesterの町はお祭りだった。子供のマーチングバンドの長い列が町を練り歩き、最後はカテドラルの前の広場に整列した。地区ごとなのか、集団の先頭の子供がヨーロッパの盾のような形の紋章の旗や幟を掲げ、その後にバンドと、何も持たない子供たちの列(一団は同じユニホーム)、また同じような構成の別のグループ(のぼりの紋章とユニフォームは異なる)、という風に延々と続いた。子供たちはこの日は日曜だが全員かり出される ようなお祭りなのだろう。解散後、地区に戻って何かお祭りのお菓子などもらえるだろう。

    別の広場では、のみの市が開かれていた。専門の骨董業者の開く露店とその周りに素人が来て家のいらなくなったものを地面に布を広げて並べ売る露店とが混在していた。

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  • 17/08/23 07:51

    2)シャガールのステンドグラスを見に行く(英国Tudeleyその2)

    ここのステンドグラスは、ヨットのセーリング(スポーツ)中に遭難して亡くなった20歳の娘さんを追悼するために、家族がシャガールにステンドグラスの製作を依頼し、実現したものだそうである。娘さんは、生前、シャガールが製作したステンドグラスを注文主の教会に納める前に公開した発表会を見に行って(発表の場所はフランスのパリあたりだったと書いてあったような気がする)、たいそうシャガールのステンドグラスを気に入っていたので、親御さんが娘のためにシャガールに依頼したと、教会に置いてあった印刷物に書いてあった。説明文の中で、父親の敬称はSirなので、由緒ある一族なのだろう。

    教会に入ると、正面のステンドグラスは、海の青色の中に、下の方には海に沈んだ娘さん、中間にはヨットや家族の家、動物、人物、上部には天使やキリストが描かれている。
    物語風に描かれているというところか。

    建物のサイドの窓にも青色のステンドグラスが入っている。絵柄は具体的には分かりにくいが、波を表したものかと思う。
    入り口付近には黄色を基調としたものがはめ込まれている。全部で12枚だそうである。
    全体として派手過ぎない美しさを出していたし、よくまとまった感じを受けた。

    日本語のブログで、教会のステンドグラス全部がシャガールのものはここの教会だけだと書かれているものを見るが、数年前に行ったフランスのリムーザン地方の Le Saillant という村の教会は小さいながらもシャガールのステンドグラス6枚全部が間違いなくシャガールのものだった。(個人のブログでは、誰かが書いた不正確な情報を孫引きして書いていることもあり得るから、読むときは注意が必要。)

    教会の周りは芝生で、後の庭は広く古い墓地で、芝生の中に6~7m離れて数百年経ったかと思われる墓石がちらほらあり、墓石の文字は風化して読み取れない。

    この日はおだやかな春の日で、芝生には直径2cmぐらいの白い花と、同じぐらいの大きさの黄色い花(タンポポではない、5弁花である)がかなり咲いている。草丈は10cm以内である。
    フランスでは、白い方をpaquerette(パクレット)といい、「復活祭の頃に咲くちっぽけな花」という意味があり、黄色い5弁花の方はbouton d’or (ブトンドール)といい、「金釦、金のボタン」という意味がある。
    英国では何というのかと思っていると、ちょうど年配の夫婦が駐車場の方からやってきた。
    奥さんの方は呼吸器系統の病気なのか、小型の酸素ボンベを背負いチューブで鼻に酸素を供給しながらで、ゆっくり歩いてくる。
    話しかけると、ご主人は、ケントに引っ越して4年が経つがここに来たことはなかった。人づてにシャガールのステンドグラスはきれいだと聞いたので、初めて来たのだと言った。
    花の名前を聞くと、白い方はdaisy(デイズイ)、黄色い方はbuttercup(バターカップ)だという。

    daisyは「デイズイ」と聞こえる発音だったが、それにしても「イ」の音がずいぶん強かった。
    デージーは日本では、こんな小さい花ではなく、直径4~5cmのきれいな園芸品種を言うが、英国では、この花もdaisyというようで、この花は野生種であるから、daisyという語の指す花の起源なのかも知れない。


    帰りは教会入り口に、戻り方向のバス停があり、時刻表も貼ってあってほぼ時刻通りにバスが来たので乗った。
    ただし、Tonbridgeから来る方は規定のバス停の設置はなく、木の板にバス停と書かれているが、その下に「乗るときはあらかじめバス会社に電話してください」と書かれ、電話番号が書かれている。反対方向はバス停があるのに、ここはどうなっているのか(来るときバスの機械にバス停の登録がない)、理解困難だった。

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  • 17/08/23 07:46

    1) シャガールのステンドグラスを見に行く(英国Tudeley その1)

    英国には、2カ所にマーク・シャガールのステンドグラスがあるという情報を得ていた。
    手始めにTudeleyの教会に行った。
    Tudeleyの教会 All Saints Church への行き方を調べると、ロンドンから電車でTonbridgeまで45分、Tonbridge駅近くを通るバス路線があるようで、時刻表はネットから入手したが、乗車するバス停の位置が検索ではわからない。教会は駅からの距離は4kmほどのようで、バス停が見つからなければ、道が入り組んでいるようだが歩いて行くつもりである。

    Tonbridge駅に着いて降りると、そこは何もない、通行人も2~3人で、ただ駅前のロータリーがあるだけの場所だった。バス停らしきものも見当たらないので、歩くことにし、駅前の歩道をほうきで掃いている駅員に、
    「タドリーのAll Saints Church に歩いて行きたいのですが、どの方向の道をとればいいでしょうか?」
    と尋ねると、(Tudeleyの発音は、日本語のブログでは、タドリーとしているものが多く、タドリーと発音するものかと思っていた)
    「タドリー? All Saints Church?」
    と、頭の中で自分の知っている範囲を探しているようだったが、該当の村が脳裏に浮かんだようで
    「テュードリーに行きたいのですか?」
    という。
    「そうです」
    というと、
    「歩いて? 野中の道を歩いてテュードリー行くんですか? それなら、そこの橋(陸橋)を登っていくと駅の反対側にでますから、そちらから行く道があります」
    という。
    近くでこのやりとりを聞いていた、車の迎えを待っている感じのおじさんが、
    「テュードリーに行くなら、その橋を登っていくと駅の向こう側にでますから、そこにテュードリーを通るバスがありますよ。その方が歩くより楽です。」
    という。
    (現地のTudeleyの発音はテュードリーだった。先頭の「テュー」の所にかなりの強勢(強いアクセント)がある。日本語のブログはタドリーとなっているものがほとんどで、タドリーが現地の発音かと思っていたが、そうではなかった。)

    二人にお礼を言って橋(陸橋)を上っていくと駅の反対側にでた。こちらは店も並んでいるし、人通りもひっきりなしにあり、バス停も行き先別にいくつも並んでいて、駅の横の通りには客待ちのタクシーが5~6台ほどいて、地方のちょっとした町のようだった。
    さっき降りたのは、駅の裏側だったのだ。

    205番バス停を探して、バスを待つ。(時間帯により、207番バスもTudeleyを通る。)

    30分ほどしてバスが来た。
    運転手に、「All Saints Church に行きたい」というと、バスの機械の画面で All Saints Church を探すが、バス停としての登録がないようだ。(グーグルマップのストリートビューではAll Saints Churchのバス停の看板が見えたのだけれど、、、)
    バスの機械ではTurmeric Gold しか出てこないので、Turmeric Gold まで買う。近くまで行けば歩いて行けるだろう。時刻表によるとTurmeric Goldまでバスの所要時間は12~13分である。

    7~8分走ったところで、前に座っているおばさんに、「All Saints Churchに行くには、どの辺でボタンを押したらいいでしょうか?」と尋ねると、「う~ん、このあたりですけど」と言いながら周りを眺めて位置を確かめようとしているようだったが、周りは牧場と林で風景に代わり映えはしないから、どの辺を走っているのか確信できないようだった。まもなく左側に看板が現れ、見ると、All Saints Churchと大きく書いてある。奥に、教会が見えた。
    「あれですね」というと、「あ。そうです。」という。ボタンを押そうと立ち上がろうとしたところ、通路を挟んで右側に座っていたおじさんがすぐ近くのボタンを押した。
    教会から2分ぐらい行き過ぎてバスが停留所に停まった。
    おじさんはここで降りるのかと思ったが、やりとりを聞いていてすかさずボタンを押してくれただけで、降りる停留所ではなかったようだ。二人にお礼を言って、運転席の所に歩いて行った。
    バス停名は、行き先として選択したTurmeric Goldだった。
    運転手は、「一つ手前でしたね。」といった。

    歩いて教会の方に向かう。ここの道路は路側帯が狭いので注意して歩く。
    10分ほどして、教会に着いた。

    (続く)

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    Re: 1) シャガールのステンドグラスを見に行く(英国Tudeley その1)

    mamoruさん、いつも詳細な旅のご報告、楽しく拝見しています。

    まだ、目を通していないところも多いのですが、とりあえず、Tudeleyの文字列が目に飛び込んできました!
    懐かしい、私が行きましたのはもうかれこれ10数年前のことになるでしょうか。

    All Saints Churchの雰囲気、とても素敵でしたでしょう?(と、つい押しつけてしまって....)
    教会の墓地は古びた墓石が並んでいて、でも、いくつかの墓石には新鮮な花が供えられたりしていませんでした?墓地からはるか丘陵地帯が見晴らせて、いかにものどかなひなびた村の教会という風情が記憶にあります。

    私が行きましたときは、近所の音楽関係の方がCD制作のためにその教会を使って録音していて、祭壇の上あたりに集音マイクがぶら下がっていましたが、さすがに今はもうなかったかもしれませんね。

    シャガールのステンドグラスの由来は悲しいことですよね。
    ご両親が住んでいらした館は、今は学校になっているようです。
    https://en.wikipedia.org/wiki/Somerhill_House

    今はどうなっているでしょうか、私が行きました当時は、ホームステイ先から教会までの野原を突っ切る径(自動車道別にあり。)は、警報器も何もないところで線路を越えたり、道々ブラックベリーを摘んだり、そこここでは木の柵を自分で外しては通ったあとまた閉める、そんないかにも農場の雰囲気でした。
    あの当時、教会での集まりのあと、隣の集会室で歓談(英語なので、私は、「歓」ではなかったですが)した村の方たちは、みなどうされたか.....
    私にとっては、個人的な理由からとりわけ懐かしい思い出の地、mamoruさんの、最新のレポート、ほんとうに嬉しかったです。


    ところで、ついでにここに書かせていただきますが、ストラスブールのヴォーバン・ダム、とほほ、行く前にこれを拝見したかったです!詳しい解説、ほんとうにありがとうございます。
    えーっ、見たっけ、見たっけ!?というところがあるのは我ながら残念至極ですが、でも、うかがえてよかったです、感謝。