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平城京にペルシャ人が居たって木簡が出てきたそうです

公開日 : 2016年10月05日
最終更新 :

http://this.kiji.is/156219212856788470

それこそ、どのような仕事をしていたのでしょう?

彼はシルクロードを移動して日本まで来たのでしょうからどのような旅の果てだったのでしょう。

私の祖先の一人かもしれませんネ~

想像は広がります。

成功を祈る!

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2件のコメント

  • 李密翳の息子かも?

    「日本書紀」「続日本紀」には、ペルシャ(らしき人)の来日・漂着記事が散見するようです。

    http://www.geocities.jp/gur_bahram/pn/pn03.htm

    天平8年(736年・聖武天皇)に、帰朝した遣唐使とともに
    波斯人(ペルシャ人)李密翳が平城京に来朝し位階を授けられているようです。
    今回リリースされた木簡は、
    「天平神護元年(765年・称徳天皇)」の「大学寮」の
    「員外大属」(定員外の4等官)の「波斯清通」の勤務記録のようです。

    李密翳が来朝し位階を授けられた29年後ですから、
    李密翳が位階を授けられ、官職を得、
    日本で結婚して土着・帰化し、「波斯」の姓(カバネ)を朝廷から下賜されたと想定すれば、
    波斯清通は李密翳の息子であり、
    称徳天皇の時代に下級官人として勤務していた、と推測することが可能です。

    あと、今から25年位前に、ペルシャ人風の彫の深い顔の人物像を描いた木簡が奈良で発見された記憶があります。
    グーグルでパラパラ検索しても見つかりませんでした。
    興味があれば。

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    確率の考え方として相当高い確率ですね

    ペルシャ人が何人日本に来たかを考えれば相当の確率ですね。

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  • 彼等は当然、隋、高句麗、釜山経由で

    紙の製法を持って来たetc

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    すると「プサン⇒津島⇒九州⇒瀬戸内海⇒奈良」というルートですね

    しかしペルシャの人に日本人が学んだ内容というのも知りたいですね~

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