すいません。旧線復活はまったくのボランティア工事で、運営も本線とはまったく違います。 純丘 曜彰どの あの・・。 氷河の見える旧線の復旧工事は有志のまったくのボランティア工事で、運行もボランティアによるものです。廃線になってすぐに保存運動がおこり、それでもいったんは線路のほとんど全線が撤去されたのですが、その一部ルアルプ付近だけかろうじて保存に成功しました。 残された蒸気機関車を買い取り、整備してわずかな距離を休日に運行する団体が徐々に大きくなり、募金をして10年ほど前についにフルカ峠を越える複線に成功しました。 古いタイプの客車を世界中から買い集め、インドダージリンの紅茶畑の蒸気機関車を買い、最初は夏だけの土日運行から今では旧路線がそうであったように6月半ばから10月の初めまでの毎日往復運行、そして今年から廃線の全線復活オーベルワルド/レアルプ間の運行を開始しました。 保守、整備、機関車、車掌、切符売り、駅の清掃から機関車の水遣り?まで全てボランティアです。 この部分はもともとメンツ路線でスイスの鉄道マンの意地から完成させた路線で実際の運行は第2次世界大戦をはさんでせいぜい20年と少々のはずです。 別のレスでも書きましたがこの路線通過が本当の意味での氷河急行で、貴殿の言われる観光路線そのものでした。 ・・・が貴殿が書かれているようにこちらを観光路線にして、旧線はローカル線?にしよう・・というのはしょせん無理な話で、脱線現場は{氷河現場}のかなり手前、つまりどちらも通らなければならない部分だからです。 ご存知無いから仕方はありませんが、今までの全体の状況をご存じないままでの実体からかけ離れたご意見になっております。 スイスフリークの身びいきではありますが、いささか思い込みと偏見プラス若干の<上から目線>が気になりましたので・・・。 妄言多謝。
DFB まったく勝手な思い込みには失笑を禁じ得ませんねヾ(℃゜)々。まぁ、余計な押しつけがないだけまだましかも知れませんが... 件の鉄道には開業間もない1995年に乗りました。当時はまだRealpからフルカ・トンネルの手前まででしたが、走行中は大量のシンダを浴びて、家内には大不評でした。とうとう全線開通したんですね。いつか乗りに行きたいものです。 ところで、 ≫ 古いタイプの客車を世界中から買い集め ≫ インドダージリンの紅茶畑の蒸気機関車を買い、 とのことですが、最初の機関車はベトナムからの里帰りだったと思います。で、ちょっとGoogってみたところ、以下の記事がありました。 http://www.swissinfo.ch/jpn/index.html?cid=6058116 2007年当時は日本人のボランティアもいたんですね。
続きです。 yarlan-zey殿 私の乗ったのはグレッチまでです。 秋口の最終日曜日でした。 全乗客もスタッフも全員お祭り気分。 出発時に蒸気圧が上がらず、1時間ずれにもかかわらずみんなで大騒ぎでした。 どこかのコーラスグループが乗っていて、どうも格好の汽車メドレーを歌いだし、これまた大喝采。 停車場から100米ほども離れた車庫まで撮り鉄グループを案内するサービス振り。 その渦中で実は工夫スタイルのおじさんおじいさんの方が偉いんだとわかった次第です。 車掌の親玉は絵に描いたようにコワモテのおばさんで、若手の車掌はボンだかケルンだかのテレビ屋さんの夏休みボランティア。ベッドと食事以外は自分もちでも希望者が多くてもぐりこむのに大変なんだとか。 それに私の乗った車輌は窓がガラスでなく、ブラインドは木製で止め具は皮ひも。100年以上前のレトロ車輌だとか。帰国後この話をしたら先輩の鉄キチ殿がそのタイプは”汽笛一斉新橋を・・・”時代のものかも・ ・とよだれを垂らしていました。 ところがフルカ駅を過ぎてトンネルに入り、いったん閉めた窓が簡単に開かない。 その間煙を避けて車内に来た若い車掌が調子に乗っていろんな話をするので気がついたらローヌ氷河が見える場所のかなりの部分を窓を閉めたまま通過でした。 出発が1時間遅れですから到着も一時間以上遅れ、連絡駅のオーベルワルドまでは彼らの用意した臨時バスがグレッチ駅にしっかり待っていました。 私たちはここであわただしい昼食で、グリムゼル峠越えのマイリンゲン、グローセシャイデック経由のグリンデルワルドでした。 来年秋にでも復旧全線の再チャレンジをするつもりですが・・。