旅をするに当たって、言葉の問題って常についてきますよね。
あちこち旅をしているうちに、次の二つの相反する命題に行き当たってしまったんですね。
命題1、言葉なんて分からなくても旅はできる
命題2、言葉が分からない土地は旅をする意味がない
命題1については、皆さん経験あると思います。ホテルに泊まる、食事を注文する、道を尋ねる等々、なんとかなります。
ところが、この「なんとかなる」が曲者でして。往々にしてこうした場面では、お互いを諒解したという充足感がないんですね。誤解も多く、嫌な思いをすることも少なくありません。
一方で、言葉が通じると、面白い出来事に遭遇します。
聞いてもいないのに、自分の年収がいくらだとか、娘が5人もいて大変だ、と喋る親父がいました。
時差の概念が理解できない人に、説明を試みたこともあります。
たいした出来事ではないけれど、なぜか深く交流したと感じました。
お互いの言うことを理解する、もしくは、理解しようとする行為が、交流に繋がるのでないか。だとしたら、旅とはつまり交流を求めることが大きな目的の一つだから、言葉が分からないといけないことになる。
さてさて、どう思われますか?