Re: Re: そういえば昔ララ物資にお世話になったっけ

昭和21年に第一陣が横浜にきたようです。それから30年ごろまでつづいたとか。

私は3歳のころ、幼稚園で脱脂粉乳を飲んだ記憶があります。

私より、4歳以上年下でいらっしゃるのですね。

紛争解決へ外国の軍隊が制圧にくるよりも、
こういう庶民に対する外国(とつくに)の庶民からの温かい援助はいつまでものこりますよね。
鬼畜、敵だった国からの援助なんて、日本国民は想像もつかなかったことでしょう。

私たちも、世界で苦しんでいる方々へ、庶民として少しでもお役にたてることをしたいです。


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2件のコメント

  • LARA物資

    下記のとおり、キリスト教徒が運動に深くかかわっていたようです。

    <カリタスジャパンのHPより>
    日本政府は、受け皿としてLARA救済物資中央委員会を設立し、
    カトリックより日本カトリック復興委員会の委員が、中央委員会委員として任命される。

    http://www32.ocn.ne.jp/~abcq/lara/la-kyoukai.htm より>
    日系アメリカ人で盛岡出身の浅野七之助が1946年1月22日に設立した
    「日本難民救済会」から始まった運動は、日系人を中心に浄財を集め物資を購入した。

    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%A9%E7%89%A9%E8%B3%87 より>
    反日感情が残るなかでの「アジア救援公認団体」認可に際しては知日派のキリスト友会員
    (クエーカー教徒)の協力によるところが大きい。
    なお、日本国内での物資配付にあたっては連合国軍最高司令官総司令部の意向により
    日系人の関与について秘匿され、アメリカからの援助物資として配付された。

    http://www.a50.gr.jp/jp/lara.html より>
    認可取得に当たっては、後にLARA中央委員会委員として継続的に活躍されたE.B.Rhoads女史
    (1896~1979)の尽力が大きく貢献いたしました。
    同女史は、1917年、21才の若さで東京フレンド女学校(現 普連土学園)の教師として来日。
    またフレンド流(クェーカー教徒)の牧師として滞日していた

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  • ちょっと一言です。

    ラファエルさん

    またまた余計なことですが・・。

    ララ物資って当時米国の復興援助物資・・その主なものは日本本土上陸作戦用の作戦資材だったそうですがその殆んどはヨーロッパ向けで日本へはまったく行かなかったんだそうです。 

    それに気がついた日系米国人(浅野さんとお名前も分っているのですが)が音頭をとって日系市民に働きかけて募金をして送り出したのがララ物資なんだそうです。過剰生産のストックの脱脂分粉乳を大量に買い上げて日本へ送りだす。 米国政府はあまり良い顔をしなかったそうですが日系人の援助しょうくを薄める団体をつくることで許可が出た。したがって占領当局は日系米国人が関与していることを発表することを禁じたとか。

    その後は米国政府の関与する援助に切り替えられて脱脂粉乳、とうもろこし他が引続いて送られるが、この部分は戦後しばらくたって、この資金は債務なんだから返せ・・と米国政府は言い出した。もちろん西ドイツ政府へも同じように取り立て請求したんですが。

    ララ物資が戦後の子どもの命を救った事実の裏にはこんな事情があることと私も最近知りました。

    てっきり米国政府の善意の援助・・だとその時まで信じていました。

    ちなみに私は終戦が11歳。 脱脂粉乳のおこぼれには幸か不幸かあずかりそこないました。

    本筋とはまったく関係ないお話ですが・・・。   

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