何処も戦争の歴史あり ものの見方は人それぞれの裁量ですが、歴史を少し調べてから旅をすると、その旅がより内容の 濃いものになりますね。文化が混ざった地域というご質問ですが、ほとんどの場合、先ず戦争が あり、征服された民は権利も財産も奪われ、重ねて独自の文化や信仰も否定されるというのが 通常のストーリーです。その結果として文化や民族の血が混ざり合った。これも好んでミックス されたという訳ではなく、征服された民の苦しみが想像されます。 勿論、それらをご理解されてのご質問だと思いますが“ 魅力的な地域 ”は思いつくだけでも たくさんあります。 ・キリスト教迫害で多くのギリシャ人が逃げ込んだ小アジアのエーゲ海側(トルコ) 尚、紀元前には計画的にギリシャ人が同地方に移り住んだという形跡があります。 ・アーリア人に攻め込まれたインド(征服者の多くからバラモンが出たらしい) ・バイキングに攻め込まれたブリテン諸島(ブリタニア:英国) ・チンギスハンに攻め込まれたホルムズや南ロシア ・カール4世の頃にドイツの首都であったプラハ (当時は、コンスタンチノーブル・ローマに次ぐ欧州第三の都市だったらしい) ・オスマントルコに2度(1529・1653年)包囲されたウィーン ・かつての地中海の覇者:ヴェネチア ・かつての大帝国:ローマ ・かつて南米諸国を征服したスペイン・ポルトガル ・東西文明の懸け橋のイスタンブール、等々 さて、トルコの歴史は幾重にも層をなし、ヒッタイト、フリギア、ペルシャ、ギリシャ、ローマ 帝国、ビザンチン帝国、オスマントルコ、ビザンチン帝国、オスマントルコと推移しました。 AD.324年にローマ帝国を統一したコンスタンティヌス1世は、330年に帝国の首都の名をコンス タンティノーブルとし、現在のイスタンブールに定めました。 宗教も自然崇拝、原始宗教、キリスト教、イスラム教、キリスト教、イスラム教と推移。 イスタンブールのアヤソフィアの2階に行くと、漆喰の下地からビザンチンの華麗なモザイク画が 現れているのを見ることができます。それではお元気で。
戦争と文化の混合 なかなか奥深いコメント、ありがとうございます。 私は興味のある地域の歴史を調べてから訪れる性質なので、自分の訪れたところはそれなりに戦争の歴史も理解しているつもりです。 特に、ローマ、ビザンチン、オスマントルコのイスタンブール(コンスタンティノーブル)の歴史は大好きでした。 ギリシャ人にとってコンスタンティノープルの陥落は、日本人にとって異国人に東京が占領されたのと同じ感覚なのでは、と想像してみたりします(違うかな?) でも、虐殺は比較的少なく、ギリシャ人の宗教も保証されたと理解しています。 だから、文化が混ざっていると言えるのかも、と。 もちろん、アヤソフィア2階の感動的なモザイク画も観てます! あと、中世シチリアの歴史も面白かったですね。 フリードリヒ2世には惹かれます。 思うに、文化の混ざった魅力的な地域というのは、少なからず寛容の精神で異文化の共存が(一時期にしても)行われた地域であると思います。 一方的な征服では、地元民が文化を誇る気にならないでしょうから、(学者にはともかく)観光に魅力的な地域にはならないのだろうと。 如何でしょうか?
施政上の配慮 レスありがとうございます。異文化の融合という話は大変奥が深く、且つ、難しいテーマです。 征服した側がその後どのような施政をするかによって、住民の対応が変わってきます。しかし、 その結果はすぐには判らず、数十年後の歴史家の評価を待たねばなりません。 例えば、チェコのカルロヴィ・ヴァリという世界的に有名な温泉保養地をご存じでしょうか。 この地は(ズデーテン)と呼ばれ、ドイツ東のザクセンとバイエルンの間に張り出したような 地形が故に、たびたび戦争がありました。政治家にとっては単に領有権の主張や領土奪還で あっても、そこに混在して暮らすズデーテン・ボヘミア人とズデーテン・ドイツ人にとっては 昨日の隣人が今日の敵となり、政治に翻弄されて双方が殺し合うという悲しい歴史があります。 そして、第二次世界大戦後、ドイツ人追放が始まり、財産没収と住民の入れ替えが行われました。 その追放の過程でナチスに協力した住民やドイツ人へのリンチが各所で起こり、多くの人の命が 失われたと言われています。そして、もともとドイツ語だった知名もすべてチェコ語に変えられ ました。これがアルザスと違うところで、アルザスは住民の入れ替えということが無かったので、 もともとドイツ語だった地名はそのまま残っています。後から入ってきたフランス人のドイツ人 に対する(施政上の配慮)からですが、歴史的にみれば良い判断だったと思います。 さて、少し話を変えましょう。 1892 年にオーストリア・ハンガリー帝国の代理公使であったハインリッヒ・クーデンホーフ・ カレルギー伯爵と結婚したクーデンホーフ・光子(本名:青山みつ。香水のあの ミツコ :只し 諸説あり)の次男であるリヒアルト・二クラス・栄次郎・クーデンホーフ・カレルギーは、生涯 をかけて「 欧州連合:パンヨーロッパ 」をとなえました。それがEECを経て今のEUの基礎 となっていることは有名な話です。この(EUの父)と呼ばれるリヒアルト・栄次郎は、1894年 11 月に東京の牛込で生まれました。2歳の時に両親と共に日本を去り(ズデーテン)のロンス ぺルグ城(現ポベチョビィッチ)で育ちました。 光子は日本が恋しくなると、城の高窓から「鯉のぼり」を揚げ、静かに眺めていたそうです。 尚、この城や多くの財産は、1914 年に第一次世界大戦の敗戦処理の際に没収されました。 リヒャルト・二クラス・栄次郎・クーデンホーフ・カレルギー伯爵は、国際政治に翻弄された (ズデーテン)で育ったが故に「 欧州連合 」を着想したのかもしれません。 尚、これは余談ですが、リヒアルト・栄次郎は、ナチスがオーストリアを占領した時に、かろう じてウィーンから逃げ、パリで潜伏中にフランスがナチスの手に落ちたため、最終的に米国へ 亡命しました。この時にモロッコのカサブランカ経由で亡命しようと試みたことがあり、これが 映画「 カサブランカ 」の台本となりました。ハンフリーボガードが演ずる(リック)が、昔の 恋人で今はレジスタンスの闘士ヴィクター・ラズロ(リヒアルト・栄次郎)の奥様になっている イングリッドバーグマンに頼まれ、彼らを米国へ亡命させるというストーリーでした。 「 君の瞳に乾杯 」というキザなセリフや主題歌であった「 As Time Goes By 」を、私も (ごく稀に)使うことがあります。