09/05/28 08:33

Re: 南極物語

私の南極はアルゼンチン領のウシュアイアからです。余り離れていないチリの最南端からも船があります。
なおオーストラリアからはロシアの砕氷船のツアーがあり値段は高いです。記録映画だけ見ました。

真夏の南極といっても海岸の比較的暖かいところでした。東京の真冬くらいの寒さでしたがウシュアイアは10度くらいブエノスアイレスは35度もありました。
昭和基地からは大陸の反対側です。私は砕氷船白瀬が最後に寄港するオーストラリア西岸のフリーマントルへも行きました。
近くのパースから大陸横断鉄道で食堂車、寝台車に乗って約10万円で3泊4日のんびりと旅行気分満点でシドニーへ着きます。

白瀬中尉はオーストラリアのシドニーからでわずか180トンの漁船を改造したものです。当てにしていた政府の援助が無く大隈重信などの民間援助はありましたが、一生借金の返済に費やされたとの事です。
一旦引き返し再度南極へついたときはアムンゼンの船が着いていた後だったそうです。
英国のスコット大佐は南極からの帰り全員遭難していた頃です。
アムンゼンは其の時に400トンくらいでした。

私が乗ったのは2万トン以上のギリシャ船で吠える40度線、怒れる50度線、狂う60度線順序は違うかもしれませんが、暴風圏もそれ程心配しないで通過しました。
外国人も年寄りが多く遭難のことは全く考えられませんでした。

しかし南極探検が盛んだった1912年に北のタイタニック号はニューヨーク北東の北大西洋で豪華客船でも合えなく氷山に衝突して沈没してしまいました。
私が貨客船で世界一周した時は時々デッキでレーダーを見て地平線に現れる船影の小さな点が大きくなるのを見ていましたが1912年にレーダーがあれば遭難も防げたと思います。
今は地球温暖化で遭難地点は冬でも氷山はありません。

しかし私の一方の道楽無線にとっては1912年のタイタニックは初めてSOSが使われたので映画になる前から知っていました。
ついでに日本海海戦で初めて哨艦信濃丸からバルチック艦隊発見の電報の無線電信が実戦に使われたのも最初で日本海軍は明治35年に実用化していて三笠にも其の時の電信機が陳列されています。

私が戦後最初に買った本は神田の富山房発行の7円で買った白瀬南極探検です。其の時は樺太犬とアイヌの隊員も大活躍しましたが帰国後差別があったようです。

私も今は余り見ませんがTVが無い時は映画は良く見ました。考えてみると歴史的な出来事と私の海外旅行はかなりこじつけもありますが相関関係があります。
西部劇の大平原は1869年のアメリカ大陸横断鉄道開通時の話です。日本海海戦でかろうじて逃げ延びたオーロラ号はサンクトペテルブルクの海岸にロシア革命の発端になった記念館として三笠のように保存してあります。

私は自分で行けませんでしたから、色々な本は買いました。
間宮林蔵の樺太探検、郡司大尉(幸田露伴の兄、其の隊員として白瀬中尉もいます)の北千島探検、福島安正中佐のシベリア単騎単独横断、大谷光瑞のチベット探検、建川中尉の敵中横断300里(満州)、桜井忠温少将の肉弾(旅順)
教科書にも載っていた明治28年野中夫妻の冬季富士山気象観測、浦松佐美太郎のウェーターホルン東山稜、
今は割合楽に乗り物で行ける所が多いです。
間宮林蔵博物館、伊能忠敬記念館は車で行くと一回りです。ついで終戦時の首相で日本海海戦時の水雷艇長鈴木貫太郎の家も回りました。お互い近くです。
白瀬南極探検隊記念館は秋田から急行は止まりませんが金浦駅前にあり大人の休日切符で行きました。

今は余り読みませんが子供の時の冒険物語は大人になってからの旅行にかなり影響を与えられました。
ただ漠然と物見遊山をする時はのんびり楽しみ、歴史的な由来のある所はそれなりに私の旅行とは切り離せません。

フランス革命、ロシア革命、アメリカの西部開拓史など学校ではならわな事は返って興味を持って旅行できるので記憶にも残ります。
色々子供の時に読んだ事は良く覚えていますが、今になって覚える事はすぐ忘れがちです。暇なので思い出すとどんどん繋がって行き止りません。昔TVが無かった時代は夕方縁台で涼みながら近所の大人から色々昔の話が聞けました。

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