辺境伯って爵位のようなものらしいが、 何となく偏屈な性格なのかと勝手に想像していたので、 バイロイトの古い歌劇場を観光する気力が失せてしまい 折角の機会を活かすことができませんでした。(恥、笑い) 皆さんにお尋ねしたいのは、この辺境伯についてです。 判り易く教えてください。 なお、日本語のwikipediaだと時代背景が書かれておらず、 今一つ理解が進まない状態です。
wikiの説明わかりやすいと思いますよ どの辺が分かりづらいのかを教えていただければ、説明も容易なのですが・・・ 偏屈と辺境なんて ダジャレなのか 字の違いから説明しなくてはいけないのかと戸惑います。 どうも、「辺境」という訳語の問題があるのかもしれないですね。 日本では、異民族や他国と隣接する地方が基本ないので、辺境伯に相当する身分が基本生じませんでした。 但し、坂上田村麻呂が征夷大将軍として蝦夷征伐を行い現在の東北に駐留していたものは、辺境伯に近い役割だったかもしれません。(江戸時代の松前藩や薩摩藩の勢力や異国の規模は、辺境伯のそれとは随分異なる) そして、辺境伯的な役割は、神聖ローマだけでなく、オスマン帝国やチャイニーズ王朝にもありましたから、そこから訳語を求めれば、もう少し馴染みやすかったのかもしれませんね。 一番ひらたくは、他国や異民族と広く勢力圏を接し相応の権力・権限を付与してその対応を担わせる伯爵とでも言えましょうか? ちなみに、wikiで紹介される神聖ローマだけでなく、チャイナ王朝やオスマン帝国でも、王朝交代や動乱は、いつしか武力・財力を蓄えた地方太守の造反から起きる場合が少なくありません。 最近は、山川などから大人向けに編集した世界史の教科書も出版されています。初歩の体系的な知識を持っていると、ずいぶんと理解が進むと思いますよ。 しかしまぁ、私も素人なので、バイロイトの話をきいて、あぁ近世まであの一帯でも辺境伯領だったのかと今更気付きましたがね。
付記 分かりやすくということで、便法的にオスマン帝国やチャイナの王朝も例に出しましたが、 中央集権的な権力が王朝に確立されるまでは、西欧の王朝の権力は極めて脆かったことは念頭に置くべきで、絶対君主の下での地方分権的色彩の強いオリエントの王朝とは大きな違いがあることを補足します。 ちなみに、神聖ローマ帝国の場合は、中央集権的権力の確立とは正反対のベクトルで中世以降は歴史が進んだことにも留意が必要です。 時代的にも、南北合一後の室町政権あたりが日本では近いのですが、王朝権力は首都とその周辺に限定され、それすら友好的な有力諸侯の支援の下に成り立っているに過ぎません。フランス史など紐解けば、王朝の伸長が初期においては有力諸侯の急死とか縁組などで得られた場合が多く、討伐なんてことはあまりなかったことに驚かされます。このことに、家訓として本当に気付いていたならハプスブルク家は正に彗眼といえましょう。 そういえば、日本史でも、異国ではありませんが、江戸幕府開闢時に、関ヶ原で滅ぼすことのできなかった豊臣系太守(島津、毛利、伊達など)が結果して辺境太守であったことで、その周囲に有力親藩・譜代で固めたというのは、家康流の封建統治だったのかもしれないですね。 この地方太守封じ込め政策を全面転換したのは、実に200年以上後の黒船来航前後で、それから四半世紀を待たず徳川幕府は崩壊しています。
Re: wikiの説明わかりやすいと思いますよ フランク王国に囚われてしまって、 そこで思考が固まっていたようです。 バイロイトは現チェコとの国境に近く 辺境伯領地としては然もありなんと思ふ。 でもバイロイトの歌劇場は中世以降に出来たのでは? 山川の薄い本にはお世話になっていて、 様々の事柄の物が出されていて興味深い。 関連説明を有難く参考になりました。