Q&A

旧日本軍の捕虜が沖仲師として働かされていた、カスピ海の港町どこか分かりませんか?

公開日 : 2010年09月04日
最終更新 :

さすけねえの父は亡くなって19年になります。

父が生前「さすけねえ、ロシアの捕虜生活をしたカスピ海の港町にシベリア鉄道で行きたい、旅費は出すから行ってくれないかい」と言われた。

もちろん「行く」と回答していて、チャンスが無く行けなかった。

シベリア鉄道を貨車の床に「トイレ用の穴」が開いた捕虜輸送用の貨車に揺られて何日も何日も移動したそうです。

ふんどしの紐を切って「布」を売ったら、現地のおばさんが頭にスカーフのようにかぶったそうだ。

その金で本を買ってトイレットペーパーにしたそうだ。

黒パンを常食にすると大便が硬くなり、紙がいらなくなるそうだが、習慣でどうしてもほしかったそうだ。

砂糖を船に積み込むときにわざとその袋を破って、飯ごうにその砂糖を入れ、捕虜収容所に戻って砂糖水を飲んだそうだ(だから生き延びた)。

そのカスピ海の港町やらに、定年になったら位牌を持って行きたいと思うようになってきた。

シベリヤ鉄道では寝台車でも自信が無いので、飛行機+鉄道で(ごめんなさ~い、貨車で移動した捕虜の皆さん)。

いつも馬鹿なレスばかりのさすけねえですが「まじめな質問」もしなくては。

http://yabusaka.moo.jp/akatuki.htm

父は有名な捕虜収容所の隣の収容所に居たそうで、その跡暖かいカスピ海側に移動したそうです。

4年半の捕虜生活は父の青春の半分を過ごした苦い経験だったようです。

その港町が分からないので、だれか詳しい方知りませんか?

そこまでの行きかた方も教えてください。

お願いします。





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6件のコメント

  • トルクメンバシ(旧クラスノヴォーツク)

    3年前にトルクメンバシに行った時、空港のそばに日本人墓地があるのを見ました。また市内にある建物の幾つかは日本人捕虜によって建設されたとも聞きました。

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    みんなの話をまとめるとそkのようです。

    もう少し建ったらいけるので行きます。

    生きているうちに連れて行きたかったけど。

    飛行機で行ってきます。

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  • おそらく…

    カスピ海沿岸で日本人が抑留されていた町とのことですので、
    おそらくトルクメニスタンのクラスノヴォドスク(現在のトルクメンバシ)ではないかと思われます。

    トルクメニスタンは数年前まで「中央アジアの北朝鮮」と呼ばれていたほど独裁国家ですので、
    中央アジアの中でもなかなか行きにくい国の1つではありますが、
    アゼルバイジャンのバクーから船でカスピ海を渡り、トルクメンバシから入国してはどうでしょうか?

    自分はカザフスタンの抑留問題を専門に研究している者ですが、
    クラスノヴォドスクにも抑留者がいたことは研究の過程で聞いたことがあります。

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    Re: おそらく…

    shunsuke212さんありがとうございます。

    地道に探しています。

    厚生労働省のHPも見つけました。

    トルクメニスタンのクラスノヴォドスク…あたってみます。

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  • オデッサでしょう

    数年前オデッサへ行った時、旅情報検索してて確か日本人捕虜の話をミートしましたので。

    オデッサ。煩雑で悩ましい港町です。行き方は簡単(歩き方ロシア編ご参照)

    今回のさすけ姐さんの話に列島は泣いたのでは?

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    オデッサは黒海ですので、残念ですが100パーセント違います、カスピ海の港町です。

    川越人足さんこんばんは~~~

    親父はカスピ海といっていたので違いますね。

    ま~気長に探しましょう。

  • 退会ユーザ @*******
    10/09/05 08:57

    僕の先輩は、確か85歳かな

    飛行機保守要員で、満州でつかまった。黒海沿岸のオゼッサやって言うてはった。
    技術者は、工場の建築図を書く仕事やったから優遇されたらしい。彼らと別に労働部隊が居たけど、彼等は悲惨や、とも言ってはった。多分、黒海沿岸のあちこちの街の建設に従事させられたんとちゃいまっか。
    僕も優秀な技術者やから、強制連行されても生き抜けそうや。

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    Re: 僕の先輩は、確か85歳かな

    春ゼミさんこんばんは~~~

    親父は、旧制中学校を出た後に某高等専門学校を出たのですが、専攻が工学系ですが残念なことに「工業化学」だったのか優遇はなかったようです。

    ただ捕虜になってたときに将校だったのでシベリアからカスピ海の港町に送られてそのような仕事を将校だけのグループで働かされたそうです。

    技術屋はそのようなときに得するのですね。

    さすけねえの3軒となりが海軍の技術中将の家なのですが当時の艤装の方のトップだったようです。

    軍隊はいろいろな人がいて今で言う「異業種集団」だったので、何かその道のプロがいて、問題が起きてもやり方がわからないことができてもプロが物事を解決したと親父は言っていましたネ。

    桶やから大工から豆腐ややヤクザまでいたとか。





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  • もしかしたら・・・

    こちらの方で何か情報が得られるかも?

    財団法人全国強制抑留者協会
    〒102-0073 東京都千代田区九段北1-8-2
    03-3261-6565

    当時と現在の地名が変わっている、
    収容所がカスピ海(兎に角デカい!)沿岸の数箇所にあったかも
    しれませんが、上手く場所が特定出来ますように。

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    「財団法人全国強制抑留者協会」ありがとうございます

    タマゴタマゴさんありがとうございます。

    シベリアで亡くなったかたがたの名簿がやっと全体が出てきたところですよね。

    当たってみます。

  • 横レスではありますが・・・

    さすけねえさん、こんばんわ。

    http://yabusaka.moo.jp/akatuki.htm
    拝見しました。  

    大江健三郎の「沖縄ノート」の訴訟にちょっと似たお話ですね。
    私はダイビングなどで沖縄へお邪魔しますので、少しずつ沖縄の事を
    調べていましたら、「大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判」を知りました。
    まだまだ「戦後は終わっていない」と思っています。

    さすけねさんとご尊父さまのお役には立ちませんが、何方かからのご回答が
    ある事をお祈り申し上げます。

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    Re: 横レスではありますが・・・

    めーじむらさん、こんばんは~~~

    これだけのデータで親父の住んだ町が分かれば。

    ネットで調べて、港町は出てきても、そこで日本軍捕虜が働いていたかどうかが?

    生きているうちによく聞いておくのだったと。

    ま~、気長にさがさないと。