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09/02/27 18:18

現連邦財務省について

先ほど教えていただいた「連邦財務省」について、ウィキぺディア等で調べてみました。建物の外観いいですねえ! 東京・丸の内のビル群をみているようです。 
さて、建物内の見学は可能ですか?さすがに政府施設につき、外観のみの見学なのでしょうか?

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5件のコメント

  • 09/03/02 12:18

    Berlin(Preußen)最初の鉄道

    ドイツで一番最初に造られた鉄道はニュルンべルクとその郊外を結ぶもので1835年に開通。ベルリン(ということは同時にそこを首都とするプロイセン)最初の鉄道はそれに遅れること3年の1838年にベルリン-ポツダムの区間で開通しました。その一部は現在でもS-Bahnとして残っていますが、ベルリンのターミナル駅であったのがポツダム広場にあったPotsdamer Bahnhofです。

    いまの地図で言うとStresemannstraßeとLinkstraße、Landwehr運河、Köthestraßeに囲まれた土地。建物で埋め尽くされつつあるポツダム広場でただ一角開けた空き地のあるその空地がかってのPotsdam駅があった場所です。

    第二次世界大戦中の空襲で大きな被害を受けたポツダム駅は、戦後ごく短い間、水没したS-Bahnの南北線の代わりに始発、終着駅として使われたことがありますが、まもなく廃止され、ながらく瓦礫が放置されていました。このあたりでは東西占領地区の境界線はStresemannstraße-Ebertstraßeですが、この駅の敷地は西のBritischer SektorでもUS Amerikanischer SektorでもなくSowjetischer Sektorに属し、壁構築後も壁の西側にありながら立ち入ることのできない土地でした。ようやく1972年に東の政府と西ベルリン政府(「西ドイツ」に非ず)の間の協定(基本的には双方の飛び地の交換整理ですが、この敷地は確か金銭で譲渡されたと思います)で西側に所属することになったものです。

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  • 09/03/02 11:59

    詳しく見てまわるとテロのトポグラフィー、チェックポイントチャーリー界隈だけで半日から一日

    ベルリンの旧市街地は地下鉄やS-Bahn、バスが網の目のように走っているのでこれを使えば効率良く見物できそうなものですが、今回のような目的の旅ですと、見たい物、見るべき物から次の目的まで結局歩くことになって結構時間がかかります。

    お好みでどこからどうまわっても良いと思いますが、一つの例として、前のコメントに書きましたS-BahnのAnhalt駅(地下)で下車して地上に出ます。大戦末期にSSの愚行で水没させられた駅、トンネルには1984年に東のドイツ国鉄(Deutsch Reichsbahn)から西の交通局BVGに経営が移されるまでその水に浸かった跡が壁に残っていたそうですが、いまは何も残っていません。

    地上に出ると撤去された長距離駅の正面の壁の一部が残っています。ここからベルリン市議会、テロのトポグラフィーへと足を運び、Wilhelmstraßeを横切ってチェックポイントチャーリーへと進みます。この東西の検問所はケネディーやフルシチョフなど世界史でおなじみの人物が立った場所でもあります(近所にその写真が展示してあると思います)。検問所のバラックはイミテーションでオリジナルはダーレムの駐留軍博物館に保管展示されています(わたしはここでアメリカ、イギリスの諜報機関によって境界線下に設けられた傍聴用のスパイトンネルが展示されているのを見たことがあります)。

    チェックポイントチャーリーからZimmerstraßeをさらに西に進むと確かMarkgrafenstraßeとの交差点あたりだったと思いますが、Peter Fechterの追悼碑があります。この青年は壁ができてからほぼ1年後に、友人と2人で西側への逃亡をはかり、監視兵に発見、発砲され、逮捕も手当てもされないまま1時間近くその場に放置され失血死しました。

    長くなりましたので続きはまた別のコメントで

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  • 09/03/01 22:19

    鉄道ファンの話題じゃなくて

    Berlin市内を地下で抜けるS-Bahnはベルリンオリンピックに合わせて建設されました。オリンピックは言うまでもなくナチスの国威発揚のために徹底的に利用されたわけです。

    Nordbahnhof - Unter den Linden 1936年7月
    Unter den Linden - Potsdamer Platz 1939年4月
    Potsdamer Platz - Anhalter Bahnhof 1939年10月

    最後の区間が開通したのはドイツのポーランド攻撃で始まった第二次世界大戦開戦後ですね(ブランデンブルク門付近でのトンネル崩落事故の影響?)。

    Anhalt駅は地上の長距離駅は大戦中の空襲、戦後の東西分裂で1952年に閉鎖、廃止され、地下のS-Bahn駅のみがいまも残っています。大戦末期のベルリン包囲戦で、このS-Bahnのトンネルをソビエト赤軍の進行に利用させまいとした親衛隊がLandwehr運河と地下線が交差する部分でトンネルの天井を爆破し、トンネルを水没させました。駅やトンネルには地上戦を避けて多くの負傷兵や市民が避難していましたが、その中には逃げ遅れておぼれ死んだ人が少なくありません。またその水はFriedrich Straße駅で交差するU-6にも流れ込み、さらにU-6に交差する他の線に...と流れ、市中心部の多くの地下線が水没し、復旧に多くの月日がかかりました。

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  • 09/02/28 11:41

    Majakowskiring

    地下鉄2号線U-2の終点から歩くこと10分でSchloss Schönhausenという宮殿に着きます。かってホーエンツォレルン家の所有だったこの建物は第二次大戦後はソビエト軍、ドイツ民主共和国の所有となり大統領府や国賓の迎賓館として使われましたが、この時期に原形を残さないほどに手を加えられたと言います。

    この宮殿のすぐ近くに、ドイツ民主共和国の党、政府の要人が暮らした一角があります。60年代に要人たちが郊外に建設された専用の居住地に移転するまで、あるいは移転した後もここには次のような人物が住んでいました。1973年までは周囲は壁に囲まれ、この一角に入る道路には歩哨がおかれ、一般人がここに入ることはできなかったそうです。
    http://einestages.spiegel.de/static/document/5617/funktionaersviertel_majakowskiring.html?d=IMAGE%2CSPON_VIDEO%2CPDF&k=tag%3AWM%3AWeltmeisterschaft&o=original_publicationdate-DESCENDING&s=13628&r=1&z=24&cp=567&c=1

    その当時の建物の多くはいまでも残っています。

    Wilhelm Pieck(大統領) Majakowskiring 29
    Otto Grotewohl(初代首相)48
    Walter Ulbricht(党書記長、国家評議会議長-国家元首-) 28/30 建物は現存せず
    Hilde Benjamin(1953年6月17日蜂起後の法務大臣) 50
    Erich Honecker(Ulbrichtの後継者) 58 Rudolf-Ditzen-Weg 14(1955-60)現存せず
    Lotte Ulbricht(Ulbricht未亡人) 12
    Johannes R. Becher(ドイツ民主共和国国歌の歌詞を作詞、文化大臣)34
    Egon Krenz(Ulbrichtの後継者、社会主義統一党最後の国家評議会議長) 9
    他にErich Milke(政治警察(Staatssicherheitsdiens大臣))、Markus Wolf(国外諜報活動責任者、公務引退後作家)など

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  • 09/02/28 09:23

    Neue Reichskanzlei Voßstraße/Wilhelmstraße

    財務省の見学...無理かもしれませんね。あるいは事前に書面で申請すれば対応してもらえるか...?

    別のコメントで資料になるURLをお送りしましたが、この財務省のあるWilhelmstraßeは歴史の宝庫(?)です。第二次世界大戦末まではドイツの政治の中心でしたから、鉄血宰相ビスマルクも、共和国初代大統領エーベルト、革命をめざすも惨殺されたリープクネヒト、ルクセンブルク、そしてヒトラーやヒムラー、ゲーリング、ゲッペルスもこの通を往来したはずです。

    Voßstraße/Wilhelmstraßeに建てられたNeue Reichskanzleiはヒトラーの官邸兼仕事場で大戦末期のベルリン攻防戦で最後の戦場となり、ヒトラー、ゲッベルスが自殺した場所です。建物はこの2本の道路の交差する場所からVoßstraßeに沿って、ポツダム広場のEbertstraßeにまで達する巨大な建物でした。そこの内装に使われていた紫の大理石が近所を走る地下鉄(U-2)のMorenstraßeを戦後修復する際に使われていまでも見ることができます。

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