むかしむかし・・・いえそれほど昔でなくても というほどではありませんが まだまだプロペラ機が全盛の頃はけっこういったん乗ったお客さんを下ろして計量しなおした・・などというオハナシ・・・真偽のほどは不明ですが、がマコトシヤカに伝えられました。 ジェット機が飛ぶようになり、それもジャンボと呼ばれる大型爆撃機か軍用貨物機の作り変え?でエンジンパワーにムチャクチャ余力が生じたらしく それまでけっこううるさかった荷物の重量制限があっという間に有名無実になったのです。 米系航空会社なんぞは 重量は問わず、容積と個数だけなんて時代が長く続きました。 つまり もう一度そこへ帰ると言うことなんです。 そのうちに 不急不要の空の旅はいけません、用件を関係官庁に届け出た上で許可を取る・・・なんてことに。 これって ほとんど40年前までの日本です。もともその頃は石油じゃなくて 外貨(貴重な外貨・・・といいました)でしたが。
40年前・・・ 先日 「地球環境のために何年前まで生活レベルを戻せるか」 というアンケートの結果を見かけました。 うろ覚えなのですが 一番多かったのが「20年前」という回答だったそうです。 そして女性より男性の方が 「戻せる年数」が短かったそうです。 20年前といったら、ちょうど昭和の終わりですよね。 その頃の自分は海外旅行なんて全く縁のない被扶養者でしたから 20年前でも想像がつきません。 ましてや40年前・・・。 その頃は官庁に届出ないと海外には出られなかったのですか? びっくりしました。
うーん それでね・・ おじさん(おじいさんかな)の小学生の頃は おコメが足りなくて親がどこからかかき集めた お芋やカボチャを刻んでご飯に炊き込んで量を増やしたのを食べていました。 いえそれでもあれば良いほうでした。 お陰で私はいまだにサツマイモ、カボチャには箸がのびません。 家の周りは焼け野が原で、草茫々。 渋谷では宮益坂、道玄坂両方の上から駅が丸見えでした。 海外旅行なんてとんでもない時代です。 日本国内の汽車のキップが自由に買えるようになるには それから5-6年ほどかかったでしょうか。 ですから いまだに焼け跡育ちの仲間たちはいつでもあの頃の何にも無い時代に俺たちは戻れるゾ・・・とうそぶいてはいますが、そんなことになったら一番先に死にたくなるのも 私たちの世代でしょう。 もう少し上の世代の人は いろいろなものがあったところから戦争でどんどんなくなっての窮乏生活でしたが、幸い?なことに私たちは無いところからのスタートだったので ある意味たいへん幸せでした。 そこへ行くとあなた方は あるところから無いところへ・・いえそんなことは考えないようにしましょう。 でも私の家では 陽あたりの良い冬の日はエアコンはいれません。夏の日中でも風さえ吹いているならエアコンは切っています。 まあ 田舎・ですからそれも出来るとはいえますが。 便利な自動車も実は運転ができません。 いえ 老親の介護用の車は家内に免許を取ってもらったのでアンマリえばれませんが。 ですから いまの北朝鮮の人々の暮らしはアンマリ他人事ではないのです。 あの暮らしは必ずしも今の私たちとそう縁遠いものではないかも知れないと考えた事は・・・ないでしょうね。とうぜんですが。 年寄りの繰言です。