私のブログから・・・「竹島問題」

竹島問題・・・・この欄は、政治には全くタッチしないのが原則だ。

日本と韓国(にほん・ハングック)とが自分の国土だと言い合っている、日本海・東海(にほんかい・トンヘ)上に浮かぶ岩礁が竹島・独島(たけしま・トクト)だ。

政治的に経緯があるようだが、今は韓国の沿岸警備隊、日本で言う海上保安庁?が大砲まで備えた軍隊が常駐している。

有吉佐知子「日本の島々、昔と今」集英社1981によれば、当時の金で70億円の水揚げが期待できる漁場であるという。

この本によると、この島の北西にある韓国に近い鬱陵島(うつりょうじま)と竹島は歴史の中では異なる島を同じ島ととらえていたり、日韓以外の国の船がしの島を「発見」して、勝手に名前を付けていた歴史が書かれている。

一番古い日本の歴史では「松島(草木ござ無き岩島)」だったのが、いつの間にか「竹島」にランクが落ちた(寿司や料理のランク)・・・。

天正17年(1589)には、日本は「全羅道(の)竹島」は韓国の領土として屈服していた。

元禄5年に(1692)にお互い領土を出張するが、小島1つで両国の隣交が・・・と言うことで、朝鮮に還付した。・・・がこれは鬱陵島を竹島と呼んでいたとも・・・。

1789にフランス海軍が発見しダジュレー島
1798イギリス人発見しアルゴート島
1849フランスの捕鯨船がリャンクール島
1854ロシアが軍艦パラダ号が実測し、リャンクール島をMenaian-Olivas列石と別名を、
1855イギリス支那艦隊ホーネット号がリャンクール島を実測してホーネット島と命名

・・・ただ問題は、この結果、(西欧諸国の)海図上に3カ所の島が画かれ、3カ所の竹島が存在することになってしまった。

1856ペリーが「日本遠征記」で書いたのは
ダジュレー島を松島と、アルゴート島を竹島と、1つはダブりで測量誤り。
・・・これで3つから2つに減った。

明治5年(1872)陸軍参謀部(現在の国土地理院はこの末裔です)では、
朝鮮の近くを松島と、日本に近い方を竹島と・・・。

その3年後同じ陸軍参謀部が、鬱陵島を松島と、ペリーが無いと判断したアルゴート島の箇所に竹島があると・・・誤って訂正した結果を発表。

明治9年(1867)日朝修好条規の成立で明治13年(1880)軍艦天城が実測、海図上の松島は鬱陵島で、これを竹島とも日本人の民間人は呼んでいた。

じゃー今の竹島は

・・・1855イギリス支那艦隊ホーネット号がリャンクール島を実測してホーネット島と命名・・・だった。

明治38年(1905)大日本帝国は、内務省訓令87号で、北緯37度9分30秒、東経131度55分、隠岐島から北西85里に存在する島嶼を「竹島」と命名し島根県に属することとした。

・・・日本国隠地郡五箇村大字久見字竹島(1番地)・・・

・・・大韓民国全羅南道○○郡○○邑○○独島(ごめんなさい分からなくて)・・・・

http://www.jeonnam.go.kr/korean/main.html


領土問題とは難しい。

さて、なぜ竹島問題をここに書いたか。

韓国が、独島に軍隊を常駐させるきっかけは、
1953年6月24日、日本国は島根県職員2名、同警察職員3名海上保安官25名とで、日本の領土の3mの木柱看板(この前、某都知事が某島に看板設置にいったのと同じ感覚)を立てに上陸した。

7月8日韓国の海軍の軍艦を竹島に派遣して、看板を引き抜いた。

灯台を造り、岩場にコンクリートを流し、兵器も供え、1954年8月23日近づいた日本の巡視鑑「おき」が近づいたら400発もの銃弾を浴びた・・・。

時代の流れとは、物事のチャンスとは、どんなものにもある。

・・・以下略・・・・

岡山1さま、
・・・・・岩礁に行っただけでパスポート取り上げですか?
・・・・・外務省はどのような理由をつけるのですか?
もし私が先月ソウル駅で「トクトは韓国の領土」の署名運動に書いてきたらどうなったでしょうね、私はその名簿が右翼に渡ったらと考えましたけど外務省(日本政府)までは頭に浮かびませんでした。

海洋資源のためにあるのが沖の鳥島もそうですけど「岩礁」ですね。
今の時代なのだから、プチホテルでも作って商売にしたら儲かるかもしれません。

北方領土も根室からそのようなツアーでも作れば、日本国民も現島民のロシア人にも良い案と思えるのだけれど。


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