07/08/30 19:00

Re: モスクワのクレムリン

私はツアー1回と個人でウラジオストックから9月、北京から1月と2回行きました。

個人も旅行代理店にホテル、鉄道、ビザは頼みました。
クレムリン前のホテルモスクワというマンモスホテルでしたが、フロントとレストランは英語が通じましたが、他の案内の従業員は英語は駄目でした。

モスクワのヤロスラブリ駅とバイカル湖付近で2回本物の警官から賄賂要求と見られるパスポート点検があり、
見ている間中パスポートから手を離さなかったところ諦めてサムライといいながら返してよこしました。

ウラジオストック駅では9月でしたから未だ日本人のバックパッカーが何人も駅で集まって話しをしました。
しかし1月は日本人には合いませんでしたが、シベリア鉄道では一等車で同室のロシア女性とは英語で話をしました。

治安の不安は私は余り感じませんでしたが、モスクワやサンクトペテルブルクだけでしたら最初はツアーをお勧めします。
日本人そっくりのアジア系のロシア人女性も見かけましたので、
その様な振りをすれば個人でも良いかもしれませんが、英語だけではばれてしまいます。

ちなみに私はロシア語はこんちわ、さよなら、ありがとう位です。
しかしキリル文字の読み方だけは懸命に覚えて行きました。今は忘れ気味です。

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1件のコメント

  • ロシア語はこんちわ、さよなら、ありがとう

    大長老おーちんはらしょ~~~!

    さすけねえの父親はロシアで捕虜生活を4年半してきて、覚えた言葉は「だばい(だわい?=日本に帰す?)」「スパシーボ」「オーチンハラショー」だけですね。

    たまたま将校だったので温かいカスピ海の港町で沖中士をしたから生き延びたと言っていました。運んでいた砂糖の袋を破ってはカッパライをして砂糖湯をみんなで飲んだと・・・その前はシベリアで木こりをしたそうです(有名な「暁に祈る」の隣の部隊だったそうです)。

    さすけねえが若い頃「さすけねえ、汽車賃だすからシベリア鉄道に一緒に行かないか?」と言われたけど飽きちゃうからと思って断った・・・
    今考えると失敗した。行ってやるべきだった。

    春になると「白樺の芽」を食べたそうです。

    白樺の木を削って作った麻雀パイで食事を賭けて食うか食われるかの麻雀をしたが口癖でした。

    シベリア上空を飛んだときに暗闇の中にガス田の炎が赤くその周りは凍てついた大地・・・「このシベリヤで親父は生きるか死ぬかを」と思ったら涙がこぼれました。

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    07/08/31 06:22

    Re: ロシア語はこんちわ、さよなら、ありがとう

    バイカル湖の近くのリストビアンカ村に日本人墓地があり、抑留者はー35度で作業中止になったとガイドが言っていました。

    兎に角ロシア人は人は良いのですが、国になると一番始末が悪い国です。

    終戦時を知っている人はもう年寄りですが、日本が原爆を落とされ降伏寸前の時に
    日ソ中立条約を信じて日本軍を満州から南方へ移動して手薄になった所を狙いたった1週間の侵攻全てを奪い去ったソ連は卑怯な国です。

    日本が知らなかったヤルタ会談でルーズベルトとスターリンが参戦の密約をしたと言われています。
    多分元防衛大臣の仕方が無い発言もその辺のことを言っていると私は思っていますが、言葉が独り歩きして弁解の余地無しです。

    それに引き換え米国は日本と真正面から戦い硫黄島、沖縄等を多くの犠牲を出しながら、
    兎に角戦争で奪ったものは返さない常識を破って基地が多いと文句は言っていますが返してよこしたのですから、

    私はロシアとアメリカを相対的に比較した場合はそれらの島が米国領のままよりは未だましだと思っています。
    今は反露より反米の方がやりやすいですから、アメリカも嫌われたものです。

    さすけねえさんのお父さんもそのひどいとばっちりを受けられたのですね。
    リストビアンカ村には時々遺族が訪れるようです。
    http://www.c-player.com/ac45785/thread/1100028311548

    私が完全装備でー30度を経験したのと終戦後食べ物も衣類も粗末で経験したのとでは天と地ほども違います。

    今は韓国も日本も首相やマスコミも戦後生まれが殆どなのでその様なロシア嫌いの人間は今の日本では最早少数派だと思います。

    ロシア人はそんなことは関係なく陽気で誰かのように酔っ払いは多いので気が会うかもしれません(笑)