ちょっと付けたさせて下さい。 ドイツの東西間の緊張は壁の崩される数年前までかなり激しいものがあり スイスなどでもリヒテンシュタイン(これでよろしいですか)との国境のライン川の中に 対戦車用のバリケードがせりあがるようになっていたほどです。 ですから いま皆さんがロンマンティック街道だといって突っ走るアウトバーンは この20年ぐらいのものでした。 つまり 東ドイツとの境20キロぐらいの幅で めぼしい経済投資は一切していなかったのです。 もともと ローテンブルグにはドイツ帝国最強の連隊があったところです。・・第一次世界大戦当時ですぞ・・・。 もっともその当時は ドイツは有力貴族によるほとんど分割統治でまとまった国ではなかったようです。 外に向けては強かったですが・・。 ですから 護るに強い城壁がシッカリ残っていたのです。 ご承知のように戦前は 旧東ドイツの方が文化的にも産業的にも一歩も二歩も先を歩いていたんですから・・。 そういう意味では ライン川地区とのハザマではありましたが・・・。 ・・・とまあ すこしシツッコカッタかもしれませんね。
第一次世界大戦のころのDas Deutsche Reich >もっともその当時(第一次世界大戦当時、引用者注)は ドイツは有力貴族によるほとんど分割統治でまとまった国ではなかったようです。 外に向けては強かったですが・・。 有力貴族というとちょっと語弊がある...有力諸侯というか領邦君主というか。 大きな話をすると大変なのでこの地方に限って言うと、プロイセン王を皇帝とする連邦帝国という形態をとっていたドイツ(帝)国にあって、この地はバイエルン王国。王家はかの有名なノイシュバンシュタイン城などお城造りに没頭し散財したので、家来に幽閉されてしまったルードヴィヒ2世(この人がビスマルクのお膳立てでホーエンツォレルン家のヴィルヘルム1世を皇帝に推戴したらしいですね)や日本にもファンが多い、シシーことエリザベト・オーストリア皇妃を輩出(?)したヴィッテルスバハ家。 しかしバイエルン強かったかな? 大昔はともかく、近世に入っては負け続けじゃなかったですか? >つまり 東ドイツとの境20キロぐらいの幅で めぼしい経済投資は一切していなかったのです。 ローテンブルクが両ドイツ国境に近接していたから発展から取り残されたというなら、それより大きな街であるヴュルツブルクやニュルンベルクの方がもっと国境に近いことの説明がつかないのではありませんか。 わたしもちょっとこだわってみました。
・・・・ ですからヴュルツブルクもニュルンベルグ(これは少々事情が違いますが)も西ドイツの経済発展から取り残されていました・・。 当時は ライン川沿岸とハンブルグエリアが中心だったと記憶しています。 戦後の空白からの立ち上がり状況をいっているのですが・・・。 ・・・。