若い日本人旅行者は最近は少なくて日本人かなと思っても中国人、台湾人、韓国人だったり。
市内中心のダーラーマーケットですれ違ったアジア系の女性、異国の人かなとおもったらすれ違う時にポロシャツにJICAの文字があるのに気づいて、日本の方ですかと声をかけたのだがまったく反応せず行ってしまった。
海外青年協力隊は街中で日本人旅行者に話しかけられても無視するように指導しているのかな。
シェンクワン行のロットトゥー(タイではないので以下ミニバンと表記します)。乗車券は宿のノーイさんが買ってきてくれたのでそのまま車内へ。空席のように見えても地元の人が確保している場合があってわかりにくい。前の方はいっぱいのようで最後方の隅の座席へ。ひとつ前の席の人は日本人のようだ。日本の方ですかと声をかけるとわたしをラオス人と思ったようでなかなか日本人と信じてもらえない。そんなにラオス語は上手くないが地元の言葉に聞こえるのだろう。
まあ話すきっかけができたので長い道中退屈せずに済んだ。所要6時間とあるが実際は8時間近くかかった。そのうえ満席。その道連れは世界の国を訪れるのを趣味にして、もう数十か国周っているのだそうだ。
シェンクワンで明日ミニバンをシェアして周りましょうと言う。ジャ―ル平原のほかに戦災を受けたシェンクワンの昔の県庁所在地ムアンクーンにも行って15:40の便でビエンチャンに向かうという話。訪問予定地が同じで早めにツアーを終えられるので一緒に周らせてもらった。
ムアンクーンの病院の跡は心が痛む。そこにチャーター車でやってきた別の若い人も日本人らしかったので、こんにちはと声をかけたのだが無視して行ってしまった。旅は道連れというが、ひとそれぞれ。
帰りの飛行機で浦和レッズのTシャツを着ていたそうだからやはり日本人なのだろう。
ぼくといっしょにミニバンで周った人は若く見えたが1968年生まれだそうでもう50歳を超えている。今の50歳くらいの年齢を境に日本人の気質も変わってきたように思う。
帰りのミニバンの手配も宿の人にお願いしたのだがバスターミナル8:30発なのに8:40ピックアップだと言う。それって理解不能だったがルアンパバーンへ行く車が直接宿のわたしをピックアップしてくれるのだった。真ん中の補助席だったらかなり苦しい旅行になるのだが、車は運転手と助手席の女性の二人きりで客はわたし一人。
さすが不安になって運賃を確認する。11万kip。往路より5千kip高いが貸し切り状態で天国だからね。ガソリン代の方が高い。
貸し切り状態は2時間ほど続いたが山の民が少しずつ増える。プークン三差路で昼食。ここからは満席になった。
山の民は乗り物に弱く、ただでさえ酔いやすいのに右へ左へ高速でカーブを走り抜けていくのだから一度車酔い状態になったら地獄になる。わたしの列の年配の女性が嘔吐を繰り返す。あとから乗り込んできた大柄の中国人がその後方で携帯端末になにやら叫び続ける。返事の応答も車内に響き渡る叫びだからラウドスピーカーモードにしていたのか。同行者次第で狭い車内は天国から地獄へ変わる。
中国人はルアンパバーンに近いシェンガンで降りて行った。もう少しだ。
結局、復路は出発遅れを計算しなければ7時間弱。乗車時間6:40ほどの難行ですんだ。
ラオスのようなところでは話しかけられたらお互い旅行情報を交換し合った方が、既成のガイド本に頼るより良い旅行ができるのになあ、と思う。
ちなみに翌日、ビスンナラート寺院の境内で若い女の子たちにタイ人かと思って声を掛けたら反応なく、売り子のマリーさんが日本人よ、と言う。それで日本語で話しかけたら台湾人ですと。日本で勉強しているのだそうだ。
知らない人ともしっかり対応できて好感が持てたので、そのあたりの寺院についてちょっとだけど知っていることを伝えた。日本の若い人たちは世界で置いてけぼりだ、なんてわたしの勝手な印象ね。