レポート

フランスへ行ってきました 2016

公開日 : 2017年01月14日
最終更新 :

フランスへ行ってきました
9月上旬から下旬まで、行程は以下のようにしました。

日本出発、欧州内乗り継ぎ、トゥールーズ空港(仏 Toulouse)へ

トゥールーズ(コルド・シュル・シエルなど観光)

モワサック Moissac(シャガールのステンドグラスのある修道院観光)

ボルドー(アルカッション、ル・コルビュジエのペサックの住宅団地、ブライ Blayeにあるヴォーバンの要塞など観光)

サルラ(サルラ観光)

ブリーヴ Brive(Le Saillant にあるシャガールのステンドグラスのある教会観光)

サン フルール Saint Flour(エッフェル塔の作者エッフェルが作ったガラビ橋観光)

クレルモン・フェラン(市内及び郊外観光、温泉地ヴィシー観光)

リヨン(市内観光)

ミュルーズ(市内観光、ベルフォール市内観光)

サン・ルイ宿泊、バーゼル空港から欧州内乗り継ぎ帰国
(パリ市内、パリCDG空港には行っていない。一人旅。)

以下に見聞したことなどをレスの形で続けます。
(必ずしも行程の順とは一致しない。)

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14件のコメント

  • 17/01/28 10:20

    16)フランスも高速バス時代に入った(ouibus ウイバスに乗る)

    オーベルニュ地方のクレルモン・フェランからリヨン市に移動する行程をとったので、列車を調べると、この区間は乗り換えのない列車は在来線普通列車(Ter)しかなく、Terの料金は35eurosと出ていた。
    Terには早割がないから、現地の駅で購入すればよく、購入せずに旅行をしていて、クレルモンフェランに到着する数日前にパソコンでouibus(sncfの子会社で2012年に出来た)のサイトを見ると、クレルモン・フェランからリヨンまでバスがあり、乗車する日の料金は早割で5eurosと出ていた。

    プリンターがないから印刷切符にする方法などを考えながらサイト内を見ると、クレルモンフェランのバスターミナルでも早割を売ると書いてあったので、町に到着して早速バスターミナルに買いに行った。

    サイトの表示によると、3日後の乗る日にちの早割料金5eurosの切符は残席2枚、日にちが近くなれば(早割売り切れになれば)9euros、その後さらに近づくと12eurosに上がるようだ。


    窓口で乗りたいバスを指定して購入する旨を伝える。料金5eurosを払う。
    窓口係員が、カルトイダンティテ(ID)を見せてください、というのでパスポートを見せる。
    (サイトの予約するページには、身分証明書番号またはパスポート番号を記入するようになっていて、乗車するときにも身分証明書の提示がないと乗れない、と書いてあったので、パスポートを持参して行った。)

    係員が、パスポートを機械に読ませて、印刷書類を作ってくれる。
    乗車するとき、パスポートが必要で、忘れないように持って行ってください、といわれる。
    その印刷書類を見ると、「予約番号xxxx、このページの印刷は必要ではありません、IDの提示が必要」と書かれていた。

    ホテルに戻って、残席数を見ると1席となっていたので、サイトと実際の運営はきちんとリンクしているようだ。


    乗車する日になり30分ぐらい前にバスターミナルに着いた。
    待っている間に、ドイツ系の flix bus(バスの色は黄緑色でよく目立つ) が3台ほど次々やってきて客を乗せて出発してゆく。行き先を見ると、パリのほか、フランス国内のかなり遠くまで行くようだった。
    ドイツの会社がフランスへきてバスを運行してかなり成功しているらしい。この会社は2013年に営業開始したということだ。


    そのうち私の乗るouibusが来た。sncfの子会社だから、sncfの赤紫色でデザインしたマークが入っている。

    運転手が降りて、客に予約番号を聞き、運転手が自分のスマホのページを繰って客のデータのページを出して、次にカルトイダンティテ(ID)を見せてもらい、その内容と一致すると、乗ってください、と乗車させていた。
    客は、ほとんどの人がスマホで予約したのか、スマホのページを見せるなどしていたが、私のように紙の番号を読み上げる人もいた。
    確かに、切符の印刷の必要はなく、予約番号を控えていけば、IDを見せて乗れるシステムだった。

    バスの中にはすでに数人の客がいたので、このバスターミナルが始発地点ではなかったようだが、予備的にあまり確認していなかった。5分ぐらいで次のバス停に止まり、数人が乗車した後は郊外に出た。乗車率は60%程度で、私の横には他の客がいたが、郊外に出ると二人で座っている客の何人かが空いている席に移動したので、私も前の空いている席に移動して、そのようにして空いている席には移動した人が座って、空席はなくなった。
    バス内にトイレもある。

    フランスの高速道路は平らな地面の上にアスファルトを敷いただけだが、カーブやアップダウンが少ないのもあって、ただまっすぐ走っている感じで、バスの構造にもよるのかも知れないが、日本での山の中を選んで高速道路を作ったような、そんな左に右に揺れる高速バスに乗るのとは揺れの感じは格段に少ない。

    2時間半走ってLyon Part Dieu 駅の東のバスターミナルに着いた。途中の休憩停車はなし。
    乗車時間2時間半は列車とほぼ同じ所要時間である。

    sncfの子会社が在来線のある区間で手広く高速バスを運行しているのは、県境を跨ぐ長距離列車はあまり運行をしたくないということなのだろう。地方の中心都市の周辺は客がある程度あるから密に運行し、客のまばらな区間は列車を減らし、経費の少ないバスにしていこうとしているように見える。

    ドイツのバス会社が入って価格競争になっているから、早割5eurosなんていう(早割と言ってもへんぴな地方では3日前まで早割5eurosが残っていた)切符が実現できるのだろうと思う。


    ouibusのサイト
    http://fr.ouibus.com/fr




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    Re:16)フランスも高速バス時代に入った(ouibus ウイバスに乗る)

    mamoruさん、こんにちは。

    flix busに乗った人の話は聞くのですけど、ouibusに乗った人の話はあまり見なかったので、興味深く拝見しました。TGVにはスピードでかないませんが、在来線の高速列車には高速バスで十分対抗できるというのは、どこも同じですね。しかもSNCFがやっているのも分かる気(?)がします。

    日本のバス、鉄道は割引率を変動させる運賃制度を取っているところはあまり聞かないですが、航空会社あたりからノウハウをもらって、積極的にやればいいと思うんですけどね。

  • 17/01/15 08:34

    15)タイヤのミシュランの工場もフランスを出て行く

    クレルモン・フェランは世界的なタイヤメーカーのミシュラン発祥の地で、本社所在地もこの地にあるそうだ。

    クレルモン・フェラン市のトラムはレールが一本で、車両はゴムタイヤで走り、一本のレールは進行のガイドと電気の取り入れの役割を担う。ゴムタイヤは重量を支えて耐久性のあるものが必要で、車両の開発時にミシュランがタイヤの開発を協力したそうである。
    (フランスでは一本レールのトラムは、ノルマンディー地方のカンと、ロレーヌ地方のナンシーにも走っている)

    滞在中、何となくテレビを見ていたら、クレルモン・フェランのミシュランの工場が縮小されて外国に出て行った特集をしていた。

    その中で、タイヤの試験をするために、大がかりなスケートボードの遊び場みたいな、路面が末端でせり上がっている建物が写っていたので、タイヤ会社はこのような建物の中で試験をしていたのかと思い、興味を持ったので、観光案内所に行って、テレビで見たが、ミシュランの工場に行ってみたい、と言うと、工場は閉まっているので見学は出来ないが、外からなら傾斜のある建物は見えます、というので、行き方を聞いて行ってみた。

    市中心部からトラムで15分程度の所だった。工場は閉まっているので、電気もついてなく、正面や横から見ても静まりかえっている。

    塀の外から見ると、せり上がった建物は3棟あり、高いものはビルの5階ぐらいの高さである。建物の下の方はコンクリートで柱を組んで、その上の建物が上方に反り返っている。
    工場の塀伝いに反対方向に歩くと、400mほど先に先ほどのそり上がった建物と相対するように同じものがあり、工場の中は別の建物があって当該の建物は見えないが、全体が相対してつながっているだろう。

    ミシュランの工場の写真↓(せり上がった建物の写真が数枚あり。)
    https://www.google.fr/search?q=usine+michelin+clermont+ferrand+images&biw=918&bih=537&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwjasaKb2sLRAhUGVrwKHe3OArUQsAQIGQ

    一緒に写っている車の大きさから、建物の大きさがわかると思います。
    いまでは、このような方法で行ったり来たりしてテストするのかどうかどうか、別のテストする装置があるような気もします。


    先進工業国の製品はアジアの新興地域の安価製品の値段攻勢にさらされ、一般品は値段では太刀打ちできないから、コストの安い国に工場を移転する流れは続いているようで、フランスも同じ、本国で作るのは工業的にレベルの高いものに限られていくんだろうね。


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    拝見しています。

    mamoruさん、いつも変わらぬ詳細な記録、いつか参考にさせていただくことがあればなあ~と思いつつ、拝見しています。

    今回は(お暑い時期にいらしたのですね。)
    シャガールのステンドグラス(青が基調なのですね。私が見た英国のものもそうでした。美しいですね。)、
    ベルフォール(ロンシャンの礼拝堂に行くために乗り換えただけで素通りしてしまったところ。残念、見落としがいっぱいありました。星形要塞、Google earthで見てみました。上空から見るとよくわかりますね。)、
    ミシュランのタイヤ(少し前まではいていました。う~ん、どこも厳しいんですね。).....
    ........あたりに特に興味をひかれました。


    これからもう少しゆっくり読ませていただきます。
    どんどんページが下がって埋もれてしまうので、とり急ぎ。

  • 17/01/14 23:03

    14)TGVが在来線を走れば鹿を撥ねる

    アキテーヌ地方のAgenからBordeauxに向かう列車に乗った。使用している車両はTGV車両だった。自分の席は4人掛けの1等席で、アラブ系の若い二人組男性の一人が私の席に座っている。すみません、そこは私の席です、というと、二人は横の空いている席に移ろうか、なにやら相談していたが、やがて席を立って、別の車両に行った。斜向かいにこのやりとりを見ていた年配のマダムが座っていて、彼女と斜向かいに座ることになる。座るとき、私がボンジュールと声をかける。マダムもボンジュールと返答した後、あの人たちはきっと切符を持っていなかったのよ、という。私も、おそらくそうでしょう、といって、しばらく時間が過ぎた。

    走行中、列車が何か急ブレーキをかけたようで、急減速して停車した。「列車が何かにぶつかったようなので、安全確認のためにしばらく停止します」という放送があった。

    ふと窓の外を見ると、鹿のような動物2頭が、全速力で飛び跳ねるような走り方で列車から畑の中を遠ざかって行く。鹿にしてはだいぶ小ぶりで、鹿の子供にしては背中の模様がなく、薄茶色一色の無地である。
    私「あ、動物が」と指さすと、マダムは「あら、大きいわね」という。
    この動物は、畑を60~70mほど横切ると、その先にある1mほどの高さの柵をものともせず、軽々と飛び越えられるほどの跳躍力で飛び越え、林の中に姿を消した。
    私「あれは何という動物ですか」
    マダム「シュヴルユよ」
    私「シュヴルユという単語を知りませんが、どういった動物でしょうか」
    マダム「あら、バンビのことよ」

    後で調べると、シュヴルユは chevreuilと書き、ヨーロッパに生息する小型の鹿で、フランスではこの鹿を養殖し、食用にしているそうである。体重は20~30kg程度だそうである。

    TGVは在来線Ter内も走るし、Terの速度は通常160km/hなので、鹿は遠くにはね飛ばされただろう。または粉砕されてしまっただろうか。

    そう言えば、だいぶ前になるが、パリ近郊のフランス人のお宅に投宿したとき、鹿肉をごちそうになったが、肉の名前をchevreuilと聞いた気がしたが、忘れていた。
    そのとき、鹿の肉は大きいスーパーに行けば売っていると聞いた。鹿肉はどのように生産されているのか疑問に思ったが、小型鹿chevreuilを養殖しているのは今回調べて初めて知った。

    日本語の鹿をフランス語にすると、cerf(雌はbiche)と言うが、こちらは大型の鹿を指すようだ。

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    14)TGVが在来線を走れば鹿を撥ねる

    mamoruさん、こんにちは。

    楽しく拝見しました。今週は仕事がほとんどブラック企業なみ(?)だったので、なにも反応できなかったのですが・・・一週間たってしまいました。最近はmamoruさんのようにきちんと「テキストベースで書く」旅行記が減って、写真だけ載せていて、一体この人は行った先でなにをどう思ったのかさっぱり分からない旅行記(?)が多いので、なおのこと読み入って(?)しまいました。

    私は鹿肉(ニホンシカ、エゾシカ)は牛肉よりもおいしい、と思っている方なのですが、ジビエというのは「(養殖していない)野生の動物の総称」のことと思っていたのですが、「養殖した鹿」もジビエと言うんでしょうか。あまり深く知らずに仏語では鹿肉のことをchevreuilということは知ってましたが、色々と背景があるんですね・・・初めて知りました。

    今シーズンは長野の伊那の方で取れた鹿肉を一度食べましたが、ステーキにして普通に食べるのがおいしい・・・もちろん、長野産のワインと共に、ですが、ワインは北信、東信のほうがおいしいので、うまくマリアージュするのでしょうか。フランスだとすごくうるさそうですが、一度地方のレストランで薀蓄を(英語か日本語で)聞きながら食べてみたいものです。

  • 17/01/14 22:58

    11)シャガールのステンドグラス(その2 ル・サイアンの礼拝堂)

    シャガールのステンドグラスがル・サイアン(le Saillant)という、フランス中部、リムーザン地方の村の礼拝堂にあるということで、見に行った。
    行き方は、Brive-la-Gaillarde(ガイドブックではブリーヴとして紹介がある。正式な町の名は綴りのとおり。)の町から電車で12~13分のAllasacまで行き、後は徒歩で30~35分である。

    国鉄Allasac駅で降りて地図を見ながら道をたどる。道は緩い長い下り坂となり、やがて川を渡る。橋を渡ると目的のle Saillant の村である。地図に礼拝堂が示された近くに行ったが、教会らしき建物がない。その辺を行ったり来たりしていると、車を近くの駐車場に停めた夫婦が、le Saillant の教会はどこでしょうか、と尋ねてきた。(会話は英語である。英国辺りからの旅行者のようだ。)私も探しているところだというと、すぐ前のシャトー(城館)を指して、ここじゃないかと思うが、門が閉まっていて入れない、という。この城館は敷地はかなり広く、建物は奥まっているが、入り口にchateau xxxx と書いてあるので、これはシャトーで教会ではないでしょう、というと、別の方向へ探しに行くようだった。

    そうこうするうちに、村の中を買い物袋を下げた年配の女性が通ったので、chapelleの場所を聞くと、こちらですと言って、その前まで連れて行ってくれた。
    そのうち、さっきの夫婦もこちらの方に歩いてくるので、大きな声で、ここですよ、と声をかけて、扉を開けて中に入る。

    中はこじんまりした教会で、正面と右側の壁、入り口上の丸窓に、小ぶりながらも全部の窓にシャガールのステンドグラス6面がはめ込まれていた。

    正面と後面(入り口上)はカラーで、横壁の窓は灰色系統のガラスに黒い線で村や村人、木などがモノクロで描かれている。小ぶりなので、入り口の上の丸窓は直径70cmほどしかなく、階段を上がると、手で触れることも出来る。
    http://allassacplusbellevilledumonde.blogspot.jp/2012/07/chagal-la-chapelle-du-saillant-de.html

    礼拝堂として、カラーのものは青の基調の中に赤を使っているが派手すぎない絵柄で、全体のハーモニーがよくとれた、いい空間を作っていた。

    この村は、川が蛇行したように流れ、林があってキャンプ場などもあり、古い家が並ぶのどかな村だった。

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    17/01/14 22:59

    12)温泉地ヴィシー

    Vichyはフランス有数の温泉保養地である。オーベルニュ地方のクレルモン・フェラン(Clermont Ferrand)から電車で30分ぐらいの距離にある。

    電車を降りてまず泉源のある建物に行く。屋内の床面から2~3m下に温泉の湧いている場所が見えるように、吹き出し口にガラスのカバーがしてある。地下水脈の位置の違いなのか、深さの差なのかわからないが、3種類の泉源が20mほど離れてあり、それぞれ温泉水に名前がついている。
    そのうちの一つの手すりから見下ろしていると、中学校の社会見学の遠足のようなものがやって来たので、場所を譲った。ガイドさんがこの泉源は肌の病気に効く温泉です、向こうの方はxxxに効く温泉です、といっている。

    温泉水が飲めるように、蛇口が並んでいる設備がある。温泉は3種類あるが、無料でやってきた人が飲める位置には1種類のみの蛇口(数個並んでいる)がある。他の2種類は柵があって、湯治の人が入る区域となっているが、柵の間から手を伸ばせば湯治専用の蛇口にも手が届く。(これって、いい加減な柵の位置で、飲みたければどうぞ、という考えらしい。)
    おじさんがコップを持ってやってきて、蛇口をひねってお湯を出し、飲んでいる。続いて、手を伸ばして、湯治客用の蛇口に手を伸ばして2杯目を飲んでいる。
    私はどんな味か知りたかったので、手に汲んで口に含んでみたが、こんなものが飲めるのだろうか、というぐらい刺激の強い酸味のあるものだった。

    温泉につかるためにテルム(thermes)の場所を観光案内所へ聞きに行く。この町には、公共のものは、ドウムというテルムと、その横に新しいテルムがあるが、大衆的なのはドウムの方で、入浴料は25eurosぐらい、新しい方は45eurosで値段は高めだという。

    大衆的な安い方に行ってみた。
    受付で説明を聞くと、まず規定の木綿のガウンを持っていない場合は20eurosでそれを買わないと入場できない。見本がハンガーに掛かっていたが、これって、他の温泉場だと、入場料25eurosの中にガウンの貸与料金も入っているのが普通だが、ここは自分持ちにしなければいけないそうだ。湯治が目的だから、何回も来ることが前提なのだろう。水泳用パンツは持っていたがタオルは持って行かなかった。タオルもここでは売っていないし、貸し出し用もないということで、街の店へ行って買う必要がある、サンダルも必要でここで購入など、いろいろ説明を聞いたが、プールは小さいので泳ぐほどの大きさはないということだし、それに合計の出費も高めで、入るのをやめた。

    湯治客らしい人が、別のテーブルで係員と湯治の契約をしているようだった。
    ここの温泉地は、湯治客向けで、泳ぐ人は対象ではないようだった。

  • 17/01/14 22:56

    10)シャガールのステンドグラス(その1 モワサックの修道院)

    モワサック(Moissac)の Saint Pierre修道院にシャガール(Marc Chagall)のステンドグラスがあるとの情報を得ていたので、今回の旅行で尋ねることにした。
    モワサックはトゥールーズとボルドーの中間点ぐらいの所にある古い町である。

    モワサックの国鉄駅を降りると、サンチャゴデコンポステーラまで、あと1400数十kmと書いた表示板が出ている。東京から鹿児島ぐらいの距離か。モワサックはサンチャゴ巡礼路の途上にあり、ここの修道院は重要な役割を担ってきたようだ。
    修道院の周りやホテルにも巡礼のいでたちの人をかなり見かけた。

    修道院の中に入って窓を注意深く全部見たが、シャガールのステンドグラスは見つからなかった。おかしいと思って、正面入り口にいた修道院の人にシャガールのステンドグラスはどこにあるのでしょうか、と尋ねると、入って奥の左側の小礼拝堂室です、という。そこは見たんだけれどと思って、再度入ると、黄色いステンドグラスの窓があるが、シャガールのものではなさそうだし、それをカメラで撮ってまた入り口に行き、これでしょうか、と写真を見せると、それじゃない、その正面にある壁だ、という。その正面は壁しかなかったはずだと思いながら、再度その部屋に戻って見回すと、信者が座るイスの背もたれの後ろがちょっと明るい。腰をかがめてみると、確かに、シャガールのステンドグラスがある。横幅30cm、高さ60cmぐらいで、厚い壁の奥にあったので、立った位置からはわからなかった。よく見るには、イスに四つん這いになるぐらいの姿勢にしないと全体は見えない。
    この窓は、部屋を暗くしているので、信者の足元に明かりを取り入れる窓のようだ。

    絵柄は薄黄色の地に黒の線でシャガール独特の人物の顔や草の絵が焼き付けられている。下部に同じ黒い線で Chagall のサイン。

    作品は小さな一枚だったが、シャガール独特のフィーリングが感じられる作品でよかった。
    この町の修道院のある地区はきれいにしつらえてあって、巡礼者が休んでいるなど、いい町だった。

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    退会ユーザ @*******
    17/01/30 09:00

    Re: 10)シャガールのステンドグラス(その1 モワサックの修道院)

    mamoruさん こんにちは。

    楽しく拝見させていただいております。
    バンビや温泉の記事も気になるのですが、
    異端カタリ派の歴史という本を読んだので、オック地方には一度は行ってみたいなあと思います。

    モワサックのサン・ピエール修道院にシャガールのステンドグラスがあるとは知りませんでした。
    ここは回廊とエレミアの彫刻が有名なあの教会ですよね。

    >信者が座るイスの背もたれの後ろがちょっと明るい。腰をかがめてみると、確かに、シャガールのステンドグラスがある。横幅30cm、高さ60cmぐらいで、厚い壁の奥にあったので、立った位置からはわからなかった。よく見るには、イスに四つん這いになるぐらいの姿勢にしないと全体は見えない。

    わぁ~体が柔らかくないと、見ることができなさそうですね。
    いつか巡礼者のいでたちで、訪れたいです。

    写真のない旅行記では、読みながら映像イメージを脳内に浮かべて、想像しながら楽しませていただいています。が、

    >フランスでは横泳ぎをする人なんて滅多にいなくて、入場者の少ないときにす~いすいと泳いでいると気持ちいいです。

    この面白すぎる文を最初に読んでしまったがために?どの文章を読んでいても、日本泳法です~いすいしている
    イメージが出てきて困りました(笑)

    ガイドブックの説明では得られない情報たっぷりの旅行記ありがとうございます。

  • 17/01/14 22:54

    9)エッフェルの作った鉄橋(その2 ガラビ橋 viaduc de Garabit オーベルニュ地方)

    オーベルニュ地方の山の中にあるガラビ橋は彼の作った鉄道橋では大きくて優美なものとしてガイドブックなどに紹介されている。
    https://www.google.fr/search?q=viaduc+de+garabit&biw=1093&bih=537&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwi1x8ST1KrRAhWCHZQKHUGpAaUQsAQIKw

    行き方は、ガラビ橋から7kmほどの所にSaint Flour(サン・フルール)という町があり、ホテルがあったので予約し、電車でこの町に向かった。

    ホテルに14時頃着いて、ガラビ橋を見学したいのでタクシーを呼んで欲しい、と頼んだ。部屋に荷物を置いてロビーで待つと、15分ぐらいしてタクシーが来た。

    運転手に、30分ぐらい観光するので、帰りはそれぐらい後に迎えに来て欲しい、タクシーは一旦帰るのかと尋ねると、30分ぐらいなら待っている、という。
    現地に着いて見ると、広場から見上げる位置になっていて、規模が大きく、歩いて周りを見学するのはかなり時間がかかりそうで、歩いての観光はやめて、山の上の方から見えるところや、真下から見上げる位置、対岸などにも行ってもらいたい、というと、了承してくれた。

    タクシーで山の上の方に登って行き、鉄橋のレールと同じ目線の高さの道路脇に、灌木の中に踏み分け道があり、そこを3mぐらい降りると畳6畳ほどの、崖に突き出たテーブルのような岩があり、ここが最もきれいに見える場所です、と案内された。谷底まで100mはゆうにある。
    全体を同じ目線の高さで見られる場所は、土地の人しか知らないだろう。川の水面もよく見える位置で、確かにきれいに見える。

    次いで、鉄橋から200mほど下流の道路橋の真ん中まで行ってくれて、車を止め、一般的な、全体が見える場所はここです、という。見上げる位置だが、橋の上を歩きながら見える角度が変わるので観光にはよい。タクシーがついてくる。数人が写真を撮っている。

    対岸の橋脚の足元に行きたいというと、対岸の橋脚の近くに行ってくれた。タクシーを降りて橋脚まで歩いて行く。石の台座があるので、鉄骨に触れることは出来ないが、1mぐらいまで近づいてみることは可能。使われているリベット(鉄の鋲)の頭は、日本の500円硬貨より一回り大きく、やや大きめのリベットを使っているようだ。
    接近して見ると使っている鉄骨のL形アングルはかなり太いものだが、離れて見ると全体の大きさに比して鉄骨の線が細く見え、優美に見えるものになっている。

    タクシーに乗ったり降りたりしていろいろな角度から堪能したので、ホテルに戻ってもらった。タクシー料金は30eurosを表示している。30eurosです、というので、案内してもらったお礼を言って、たっぷりチップをあげた。

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  • 17/01/14 22:52

    8)エッフェルの作った鉄橋(その1  ボルドー、ガロンヌ川の鉄橋)

    エッフェル(Gustave Eiffel)といえばパリのエッフェル塔を作った人として知られているが、各地の鉄橋や鉄の構造物を作った人である。

    パリからボルドーに入る直前に列車はガロンヌ川を渡る。この辺り、TGVも在来線列車も同じ線路の上を走る。1860年にここに架けられたのが la passerelle Eiffel (エッフェル橋とでも訳せる)と呼ばれる鉄橋である。
    エッフェル26歳の時の建設で、100%彼の作品ではないが、新進のエンジニアとして建設に重要な役割を担ったからそう呼ばれている。
    ネットで見ると、完成から148年経った2008年に、老朽化のために新しい橋がすぐ隣に出来て、エッフェルの橋は使っていないとのこと。撤去される前にと思って、ボルドー駅から歩いて見に行った。

    ボルドー駅に近い方の川岸は橋のすぐ近くまでは行けないようになっていて(フェンスがあって立ち入り禁止)、別の橋で対岸に歩いて行き、橋の直下まで行って見る。橋は使っていないから、橋の終了地点で切れたようになっている。
    完成した1860年は、日本では徳川幕府末期の頃で、当時のヨーロッパの製鉄技術では、比較的薄いL形のアングルしかなかったのか、背中合わせにリベット(鉄の鋲)で貼り合わせたり、何枚かを貼り合わせてH形にしたりしてトラス構造としている。かなり密に鉄骨を配した構造で、リベットは小さめ(アングルの幅に合わせるとこうなるのか)、10~15cm間隔で緻密に打たれている。これだけリベットを打つのは大変な手間だったろう。鉄橋の長さは、500mあるということだ。
    http://www.sudouest.fr/2016/03/15/la-passerelle-eiffel-de-bordeaux-en-images-2300778-2780.php

    新しい橋の位置を見ると、エッフェル橋のすぐ横だが、レールはエッフェル橋を渡るのが元々まっすぐの方向で、新しい橋を渡るレールは橋の少し手前からぐにゃりと曲がって新しい橋に入り、渡り終わるとまたぐにゃりと曲がって駅に向かうレールに入るようになっている。これって、エッフェル橋を残そうとしてとったルートだろう。このエッフェル橋は観光用に残すつもりなのかも知れない。
    または、仮橋を造ってエッフェル橋を撤去する費用がもったいなかったのでそうしたということも考えられるけれど。

    PS 
    ボルドーのすぐ東を流れるのはガロンヌ川。ボルドーから20kmほど下流でドルドーニュ川と合流し、川の名前はジロンド川となる。

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  • 17/01/14 22:51

    7)ベルフォールのライオン石像

    普仏戦争後にドイツはベルフォールを含むアルザス地方の割譲を要求してきた。当のベルフォール市の人はもとより、フランス全土の人がフランスの安全保障上重要な土地であるベルフォールを渡すこの講和条件に反対し、ゼネストも起こりかねない状況になったため、仏政府は割譲するアルザス地方からベルフォールを外し、代わりの土地としてロレーヌ地方のうち、メッス(Metz)市を中心とする地方を割譲する土地に含めることでドイツ側の了承を得、講和条約を結んだ。
    その後、フランスでは戦争で最後まで陥ちなかったベルフォールの兵士と市民の勇気をたたえて記念になるものを作ろうと言うことになり、彫刻家バルトルディ(Auguste Bartholdi)に白羽の矢が立った。バルトルディは後にニューヨークの自由の女神像を作ることになる人物である。

    彼が作ったのは、巨大なライオン像である。何しろ大きい。長さ22m、高さ11mだそうである。
    要塞の切り立った岩の壁に寄せて置かれている。
    赤みがかった石で高さ40~50cmぐらい、長さ1mぐらいの石を数百個組み合わせて彫刻しライオン像となっている。口を少し開けてガオッと吠えたところだそうである。

    全体を1個の大きい石から作るのは困難だから数多くの石に分けたのだろうけれど、あごの辺りはオーバーハングのようになっているのに落ちないのは、中で何かうまく石の切り込みが噛み合って落ちないようになっているのだろうと思う。

    この像があるのを知っていれば町からも建物の間から遠くこの像を望むことが出来る。
    https://fr.wikipedia.org/wiki/Lion_de_Belfort

    この石像の成功の何年か後、彼はニューヨークの自由の女神像を作った。彼の代表作は自由の女神像だが、ベルフォールのライオン像はいわば出世作と言うべきものだろう。

    後年の作品に、リヨン市のテロ-広場の噴水(女神が4頭の馬に引かせた乗り物の上にいる像)、最晩年にはクレルモン・フェラン市のショッド広場のヴェルサンジェトリックス像(フランスの地方の部族を率いて、侵入してくるローマ軍と戦った、フランス最初の英雄とされている人物)などがある。
    これらの像もちょうどその町に行ったので見に行ったが、リヨン市のものは噴水の水の中で腐食が進み、修復工事中で取り外されていた。クレルモン・フェランのものは、馬にまたがった人物の雰囲気が何となく自由の女神の体の向きや姿勢に似ていた。

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  • 17/01/14 22:50

    6)Vaubanの要塞(2) Belfort(ベルフォール)の要塞

    Belfortはフランス東部のブザンソンとミュルーズの中間ぐらいの所にある。この地はドイツからアルザスを経由してフランス中部(ブルゴーニュ地方、ローヌ・アルプ地方)に至るには、地形的にここを通るしかなく(山脈の間の回廊を通る)、ルイ14世の時代に要塞建設の天才、ヴォーバンに命じてヌフ・ブリザック、ベルフォール、ブザンソンと3カ所の要塞を順に並べて回廊を守るべく建設し、東方面の備えとしたものである。

    建設から約180年後の1870年にドイツ(プロイセン)との普仏戦争が起こった。
    プロイセン軍のうち仏中部を目指した部隊はヌフ・ブリザックの要塞を包囲して大砲を雨あられと撃ち込み、仏側は兵士と市民の損害が大きくなったため、この要塞は早い時期に降伏し開城した。続いて、ベルフォールに迫り、攻め立てたがここの要塞は陥落せず、フランス中部を目指したドイツ軍はここで足止めされ戦争終結を迎えた。(一方、ドイツの主力部隊はヴォージュ山脈の北側を進み、仏軍は連敗してパリを包囲され、仏側の敗北が決まった。)
    この要塞は、平地に建設されたヌフ・ブリザックとはどんな違いがあり、なぜ持ちこたえたのか、興味があったので、見に行くことにした。

    ベルフォールの国鉄駅から町の中を歩いて要塞に向かう。要塞の正面は30mぐらいの切り立った岩で、ジグザグに登っていくと正面入り口に着く。入り口は入り組んだ構造になっているので、また、下からは見上げる位置関係で、この正面を大砲で攻略することは不可能だろう。(当時の大砲は、下からと上からの砲撃戦では圧倒的に上から撃つ方が有利だった。)
    要塞の後ろ側に回ると、この丘の後の方は緩やかな傾斜で、何重にも星形に稜が設けられ、防御構造となっている。この何重にも設けられた防御稜を突破するのもまた難しそうだ。 ヌフ・ブリザックを攻略したように、遠距離から大砲を撃ち込むしかなさそうだ。

    ここの見学はガイド付きのツアーはなく、オーディオガイドを借りて音声案内で順に内部の見学をするようになっていた。番号に従って内部に誘導される。内部は地下の通路やホールのようなものが建設され、見学コース以外は格子の扉があちこちにはまっていて、複雑に分岐し、見学コース以外に広大な空間があることを予感させてはいたが、分岐地下壕は見学外で、全容を見ることは出来なかった。感じとしては、ここの見学の前に見に行ったボルドーの近くのブライ(Blaye)の要塞と地下構造は似ているようだった。

    推定するに、次々落下する砲弾に耐えるには、地下にいかに多数の兵士を保有できるかが分かれ目になったようだ。

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  • 17/01/14 22:48

    5)Vaubanの要塞(1) ジロンド川下流 Blaye とFort Medoc

    ブライ(Blaye)はジロンド川右岸の町で、ボルドーの40kmほど下流(北西)にあり、海から川をさかのぼってくる外敵に対抗するために、ルイ14世時代に川の右岸のこの町にヴォーバン(Vauban)により要塞が建設された。この対岸(川の左岸)にもVaubanの築いた要塞があり、フォールメドック(Fort Medoc)と呼ばれている。Vaubanはルイ14世時代の人で、日本では徳川幕府5代将軍綱吉の頃である。

    片方の見学の後、うまくいけばジロンド川を渡すフェリーで対岸に移動し両方の見学をするつもり。

    バスなどの運行時刻から、先にBlayeに行き、後でFort Medocに行くことにした。
    まず、トラムC線でボルドー郊外の les Aubiers まで行き、そこのバスターミナルからBlaye行きのバスに乗った。1時間半乗ってBlaye市役所前のバス停で降りる。バスの停留所から要塞独特の入り組んでいそうな感じで石垣が見える。

    中に入るとここはかなり広く、土地に起伏があるので自分がどこにいるのかわからない。観光案内所を示す矢印に従って観光案内所に行き、要塞の地図がないか尋ねると、「午後2時からガイド付きの見学があり、要塞地下壕の案内を行いますが、興味があれば参加してはどうですか?」と勧められたので、料金を払って申し込む。

    この日のボルドー地方の予想最高気温は36℃で、連日猛暑日である。
    木陰でサンドイッチを食べ、もらった地図を見て少し歩くが、暑くて、日陰で2時が来るのを待った。
    集まったのは、年配のフランス人夫婦2組と私の計5人である。

    ガイドは観光案内所の受付をしていた20歳半ばの女性である。説明はフランス語。
    川を見渡す要塞の崖部分や、厩舎を説明した後、地下壕の入り口の鍵を開け、地下壕に入っていく。
    地下壕は広間のような場所が地下通路でつながっていて、分岐した地下通路もあってかなり複雑だった。
    空堀には、入ってきた敵兵を撃つための銃眼がいくつもあり、大砲を撃つ穴も壁に設けられている。大砲を撃つ部屋には上部に直径70cmぐらいの空気穴が地上まで煙突のように開いていて、4~5m上部には地上の穴から空が見える。土が地下壕の上に4~5mあるようだ。当時の大砲の火薬は煙を多く発生したので、排煙の穴が開いていないと兵士が呼吸できないほど激しかったそうである。
    要塞裏側の入り口はVaubanが最も弱い箇所とみたようで、空堀の向こうの小高いところを敵に占領されたらそこから大砲を入り口扉に浴びせかけられるとみて、空堀に石を積み上げて、高さ6~7mほどの盾のような石壁が幾重にも築かれている。丘から大砲を撃っても、この盾を全部撃って壊さないと直線的に飛ぶ砲弾が門には命中しない位置関係となっている。Vaubanさん、いろいろ考えたんだね。

    3時に見学が終わった。
    対岸に渡るフェリーは3時を予定していたが、時間が過ぎたので、4時半のフェリーになった。ジロンド川下流の川幅はとても広く、川の中にいくつも島のように中州があって木が茂り、家なども見えた。

    渡った先の村からFort Medocまで2kmほどだが、渡ってみるとバスまでの時間があまりないので、Fort Medocまで往復しての見学はやめて、この村からバスでボルドーに戻った。

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  • 17/01/14 22:47

    4)アルカッションのピラ砂丘(その2 続き)

    こちらのピークともとのピークとはほとんど同じ高さかもしれない。

    波打ち際まで降りていって遊んでいる人もいるし、泳ぎに来たのが目的で、砂丘に登って休んでいる人もいるようだった。

    海の方は大西洋の大海原で島影一つない。陸の方を見ると、文字通り見渡す限りずっと向こうの地平線まで松林しか見えない。この辺の松はかなり大きく、高さ20m以上はありそうで、建物は隠れてしまって、100mの高さから見ても松林のほかには何も見えない。
    松の木は前日にル・コルビュジエの家の係員から聞いたボルドーパインである。ボルドーパインはpin maritimeともいい、意味は「海岸地方の松」とでも訳せる。この辺りの海岸地方はこの松林で埋め尽くされているようだった。

    下りは、砂の上を大股で降りれば、一歩で1.5mぐらいは滑り降りる感じで、富士登山で砂走りを降りるような感覚でおもしろい。ただし、100mしかないから、数分で終わった。

    説明板によると、砂丘は1年に1mぐらい陸側に砂を運んで進んでくるので、松林が枯れて少しずつ後退しているそうだ。砂丘の上から見ると、松林と砂丘の境界に何本か枯れた松が見られる。砂に根が深く埋もれた場合、松は枯れるのだろう。

    この状態を見ると、昔読んだ安部公房の小説「砂の女」を思い出す。映画にもなった。(ある時、撮影から何十年も経って偶然映画を見て、おもしろかったので小説も読んだ。映画に出てくる「砂の女」を演ずる女優は若かりし頃の岸田今日子。)
    あの小説に出てくる、砂が間断なく飛んできて村が埋まってしまいそうになる所なんてあるのかな、なんて思っていたが、ここの砂丘はそんな感じのところだった。

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  • 17/01/14 22:46

    3)アルカッションのピラ砂丘(その1)

    ボルドーから電車で50分ぐらいの所にアルカッションという港町がある。そこからバスで30分ぐらいの所にピラ砂丘というのがある。行ってみることにした。
    昼少し前にアルカッションに着いた。海岸の方に出ると、魚介類のレストランがずらっと並んでいる。このときは9月上旬で8月のバカンス時期は過ぎたが、まだ遅めの休暇を取る人もいるようで、ある程度賑わいを見せていた。
    海岸沿いの魚介類のレストランで昼食を済ませて、バスに30分程度乗って Dune de Pilat で降りる。(仏語で砂丘はDune という)

    降りたところは松林の端で、案内板に従って松林の中の小道を行くと、砂地の道になり、カフェやレストランがある一角を過ぎると、通路の砂が深くなる。
    戻ってくる人を見ると、かなりの人が裸足で、手に靴を持っている。確かに、靴に砂が入らないように歩くのは難儀だ。道ばたで立ち止まって靴を脱いでいる人もいる。私も靴を脱いで裸足で歩くことにした。
    程なく砂丘の端に着いた。

    砂丘は見上げるほどでかなり高い。入り口の説明板によると、116mあるそうである。妙に砂の色が薄い明るい茶色なのは、砂の粒の30%ぐらいが透明の石英なんだそうで、光の反射でそう見えるらしい。砂の拡大写真なども貼ってある。

    むやみに登ろうとすると足元が砂に埋もれて崩れ、30cmぐらい足を上げて踏み出しても20cmぐらい崩れるからはかどらない。かなりさらさらした砂である。プラスチックの板で階段がつけられていて手すりもあり、ここが正規の登り道だ。頂上までの8割ぐらい登ったところから階段がないので、後は砂の上をゆっくり登る。

    この日はボルドー地方の予想気温35℃で、快晴でかなり暑かったが、頂上に出ると海風が吹いていて何とかしのげる。

    頂上から海の方を見ると、海から緩い傾斜で次第に砂がせり上がってきて、頂上を形成し、乗り越えた砂は陸地側に急降下で落下したようで、陸側は急坂になっている。頂上から足を踏み外して陸側に転落するとふもとまで滑落しそうな勾配となっている。

    頂上は階段の上の第1のピークと、500mぐらい西の方に同じぐらいの高さのピークがある。この第2のピークまで歩いて行く人はあまりいない。暑さもあるだろう。
    せっかくだから歩いて行ってみた。途中は鞍部になっていて山脈みたいな砂の山を足を潜らせながら歩いて行く。片道15分ぐらいはかかる。

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  • 17/01/14 22:44

    2)ル・コルビュジエの集合住宅、ボルドー近郊ペサックにて(その2)

    床を見ると、張ってあるフローリング材は針葉樹の松のようだった。
    表面は新しい木の肌が出ているが、継ぎ目の隙間は年月を経た黒ずんだままなので、最近表面を研磨して新しい面を出したものらしい。
    日本で見かける「パイン材(一般的には北欧産)」とも感じが違うし、日本の松材(赤松)とも感じが違う。
    ひょっとしたら、ネットなどで見かける「ボルドーパイン」(という松の木の種類、ボルドー松、マリチムパインなどとも言う)なのかもしれないと思い、係員の所に行って尋ねると「床は、ボルドーパインです。ボルドーパインは堅くて長持ちする材で、ここは建築後90年経っていますが、取り替えはされてなくて、今でも十分使えます。最近表面を研磨して新しい面を出しています。」という。

    ボルドーパインの木はこの辺ではポピュラーなのかと尋ねると、ボルドーパインはこの辺では庭でも山でもどこにでも生えています、という。(後で調べると、仏語では pin maritime ともいい、ボルドーを中心とするアキテーヌ地方で広く分布しているようだ。)

    材が堅いというので、係員が事務所に戻ってから、床面の木目の柔らかそうな部分に親指で爪を立ててみたが跡は付かなかった。松材は普通、柔らかい部分に爪を立てると跡が付くが、ここの床は表面に硬化剤やニスを塗った感じはないし、爪で跡が付かないところを見るとやはり堅い材のようであった。
    ル・コルビュジエさん、現地の材を利用したんだね。しかも、いい材のようだ。
    (現在ではボルドーパインは日本にも輸入されている。日本では十分知られているものではなさそうだし、自分の家に使う人はあまりいないかもしれないが。)

    見学が終わったので、事務所を覗いてお礼を言うと、どうやって来たのかという。ボルドーから電車で来てペサック駅から歩いてきたというと、駅まで歩くのは大変暑いから、すぐそこの大通りに出ると4番バスがボルドーの中心まで行くからバスに乗った方が歩かなくてすむ、というので、言われたとおり大通りに出てバスを待った。(バス停の名前はメモしなかったので忘れた)このバスは、来るとき追い越していったし、反対方向の町の方に向かうのを何回か見た。頻繁に運行しているらしい。

    バス停に行く途中に松の木があって、どうもこの松がボルドーパインらしい。枝が下がっていたので、引き寄せてみると、松葉は日本の黒松より2倍ぐらいの太さでごわごわしている。松葉の長さは黒松よりちょっと短いようだった。
    バスに乗って途中で窓の外を見ていると、この種類の松の木は至る所に生えていて、この地区ではポピュラーなようだった。

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  • 17/01/14 22:43

    1) ル・コルビュジエの集合住宅、ボルドー近郊ペサックにて(その1)

    フリュジェ(Frugès)という人が自分の工場の従業員の社宅用として住宅群を建てるのに、ル・コルビュジエに依頼したもの。46戸が用意された。1924年頃の作品。
    仏語ではこの地区は Quartiers Modernes Frugès といわれている。
    行き方は、吉野弘さんの「ル・コルビュジエを歩こう」(株)エクスナレッジ社の本を参考にした。

    ボルドーから電車で6~7分の国鉄ペサック駅(Pessac)で降りる。9月上旬のこの日は暑く、天気予報では36℃を予想していた。
    徒歩20分ぐらいとみたが、日陰を選んでゆっくり歩くので25分ぐらいかかった。何しろ暑い。
    展示されている事務所に着くと、昼休みがあり午後は14時からオープンと表示されている。建物の一戸を事務所兼展示用にしているようだった。周りの一連のコルビュジエの建物外観を見たり、日陰で休んだりして午後のオープンを待つ。
    時折、車で来てこの辺り一帯の建物の写真を撮っていく人がいる。
    14時になったので玄関に行くと、ちょうど女性係員が玄関を空けるところだった。
    見学したいというと、どうぞ、と中へ案内された。
    1階はガレージとエントランス、階段室、2階と3階が居室となっている。1階のガレージはこの事務所では展示室に改造して全体の配置模型や家の模型などの展示室としている。
    説明をしながら室内を案内してくれる。
    内階段を上がって2階を案内された。2階は居間(サロンという)とキッチンである。その後、3階に上がって寝室と書斎(仕事部屋、子供部屋などにも使う)であった。

    係員が、建築業をやっていて来たのかアマチュアかと聞くので、アマチュアで趣味で訪ねていることを言うと、さらに、どこから来たのかと聞かれたので、日本からだというと、「最近コルビュジエの作品が世界遺産に認定されて、日本にも一カ所入っていますね。」という。東京の国立西洋美術館のことだが、「日本からフランスに来るなら、インドの作品も一カ所世界遺産に入ったから、インドに立ち寄ってインドの作品も見てきたらよかったのに。」なんて冗談を言っている。(インドにそれだけで行くのもどうもね。)
    説明では、ここの作品はコルビュジエの作品では最も早い時期のものだそうである。

    見学中に、内部に入って見学する人は私以外にはいなかった。

    その後は、自由見学である。部屋は特別変わったことはないが、窓はコルビュジエ独特の、右から左まで外に面した壁の横全長に渡って窓になっている。窓の上下の高さは80cmぐらいだが横に長く窓のある壁の横幅が全部窓になっているので、部屋に開放感がある。
    窓の外には区分されたシャッターが付いていた。(フランス窓は鎧戸が普通だが、横に開くのは視界を遮るのでシャッターで設計したのだろう。)
    外から見たときは、屋上の一部にコンクリートのパーゴラや平な屋根があり、夕方など過ごすと気持ちよさそうだったが、屋上に出るドアは閉められていて、閉止中と書かれ、屋上は見学できないようになっていた。
    他の建物にはどこも人が住んでいて、屋上に人が出て何かしているのが見えた。

    (続く)

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